全て
| カテゴリ未分類
| こころ・身体
| 気持ち
| 趣味や好みなど
| 生活環境/季節
| ふるさと
| 六十六部供養塔始末
| 文化・伝統
| 思い出
| 吟
| 散策・紀行など
| 放射能汚染・原発
| 七二会
| 自分
| りんりん
| 温泉など
| 動植物
| 民泊問題
カテゴリ:思い出
防衛省の奥様会にも出入り業者からの接待だとかどーのこーの いやらしいなぁとつくづく思うこういう体質。 昔香港で駐在員の奥さんとしての生活をしていた。 1991年初めに転勤になった頃は夫の会社でも奥様会というのがあった。 しゃちょーの奥様がトップにいて、その下にだいたいの年齢順に並んでいる会だった。 まず飛行場に到着した時に出口ゲートにずらっと居並んでお迎えしてくださってご挨拶・・・ 誰かに意地悪されたとかは無かったけれど好奇心で品定めされるような気分は味わったと思う。 数日後に歓迎会としての昼食会を開いて貰った。 香港以前にいたアメリカでは奥様会なんてなかったし住居も広範囲に散らばっていたので殆ど面倒な交流が無かったのでこれには驚いた。 香港みたいな狭い土地に日本人がひしめき合い、その中のいくつかの特定地域に同じ会社の家族が沢山住んでいたのでかなりのプレッシャーを感じた。 奥様会の食事の時に赤や青や派手な原色の服を着て行くと何言われるか解らないから気をつけるようにと「親切な方」がそうっと教えてくれる。 え゛~ そんな世界が本当にあるんだ~ 思いっきり仰け反った 当時のしゃちょーの奥様は年配の方で親切で面倒見の良い人だったと思う。 でも周りがそういった気の遣い方をするものだから本当に裏の無い人なのか、それともまつり上げられて満足しているような人だったのかは未だに解らない。 夫同士が同じ会社に勤めている関係の妻達の付き合いとは、とにかく面倒で気ばかり遣う事であった。 その頃は着任時の飛行場への出迎え、帰任時の飛行場への見送り、歓送迎会、時々の顔合わせ飲茶会など私も奥様面して取り澄ました顔をしていなければならない機会が沢山あった。 小さい子供がいる若い人達は飛行場(その頃は啓徳空港で近かったけど)へ出向くだけでもかなりの苦労だったと思う。 見ず知らずの土地に越してきてあれこれ生活についてのアドバイスはありがたかったけど、親切の後ろに何やらながれているような雰囲気にかなり気疲れしたのを覚えている。 送別会の時には必ず陶器の薔薇の花の置物をあげるのが決まりだった。 これって本当に貰って嬉しいような物かな その度に買いに行く係りや幹事が決められて、それは必ず2人で組んで時間を合わせて一緒に出かけなければならない面倒な決まりだった。 何かと言うと電話連絡網でお知らせが回って、網の最後の人は確実に連絡が届いたか確認する為にトップへ戻したり。 小学生じゃあるまいし面倒な事この上なかった。 会に出席して表面上外面良く時間を過ごして帰って来ると、大体1週間は立ち直れない程精神的に疲れたし、作り笑いした自分への嫌気でイライラしまくったものだった 何かと言うと「何か起きたら大変だから・・・」という大義名分でばっさり切られて有り余る時間をパートに出る事すら禁じられていたのもその頃である。 同じ日本人同士、同じ会社の家族同士で助け合うのはとても良い事だし有意義な事だと思う。 でもそれがものすごく狭い社会の中で固まらなければいけないというような風潮になった時、それは手かせ足かせと監視になってしまいかねない。 なんとか逃げたい無視したい自由が欲しいと思っても、夫が会社で仕事し難い状態にでもなったら困るから、という理由で自重するしか出来なかった。 だいたい夫の会社の地位に寄って、単に妻であるというだけの者の価値や社会的地位が決められる筈がないし、そんなの堪らない 数年間疑問に思いながら過ごしたけれど、自分が婦人会のトップになるという時点で歓迎会以外の決まりを全部廃止してしまった 歓送迎会の幹事は気がついた人が適当にアレンジすれば簡単に済んでしまう事も実証できた。 婦人会など無くなって良かったという声が後から後から湧いて来て嬉しかった 人は自分の権威付けするのが好きな動物なのだろう。 横一線に並んで皆と同じ、と思う事で安心する部分が多いのだろう。 もちろん全員ではないけれど、駐在員妻達は狭い日本人社会に閉じ込められて多分に見栄や虚栄心に左右されて泣いたり怒ったり悩んだりしていた頃だった。(現在は知らない、ずっと若い世代が増えたので・・・) 私の住んでいた地域は特に日本人が多い場所で、日本人小学校のスクールバスが一時は毎日7台も出入りしていた所である。 同じ会社の同僚の子供の成績や受ける高校のレベルから始まり、持っているブランド物に目が行き自分も自分もと騒ぐ人達は沢山いた。 違う会社でも同じ日本人駐在員同士での見栄の張り合いで、住んでいるマンションのある場所や広さに悩み引越しを繰り返す人もいた。 私の場合はアメリカからの直接転勤だったので子供が日本人学校に通わなかった為、ある意味傍観者的位置にいられたのはラッキーだったと思う。 全く同じ立場になっていたらどう行動していたかは解らないけどね あの時期そんな真っ只中に入れられて流れに逆らえず悩んでいた人を何人も見た。 自分は自分と、ある意味開き直りの出来る人達は逞しく笑って過ごしていたけれど 経済の成長期から数え切れない程の日本人ビジネスマンが世界中に渡って働いて来た。 彼らを支えて一緒にあちこちに転勤して歩いた女達は一般的に思われるよりもずっと逞しく強く活き活きと生きていた。 一緒に海外に持ち出した「日本人」同士の思いやりや助け合いは暖かく嬉しい事だったけれど、悪い面での日本人社会のやり方に泣いた女も沢山いたのは事実だ。 防衛省婦人会などという話を知って、今の日本にまだこんな古びた悪しき伝統が残っているのに驚いて、つい思い出した15年も前の話である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|