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大切な友人のあけみは先週の狭心症での急性心不全で倒れて入院して以来、一度も目が覚めていません。 そしてとうとう昨日検査の結果で脳死が判定されました。 投薬量を減らして行って自然な形で逝かせてあげる事に決まったそうで、 お父さんが会ってくれる人は皆に会いに来て欲しいと言ってくれました。 救急救命センター内のベッドに居る為、身内の人が付き添う形で2人ずつ 入る事が出来る事になりました。 昨日私はあけみに会いに行って来ました。 お別れを言いに行ったのではありません。 ベッドに少し体を横に向けるように仰臥したあけみの手を握ると 暖かく脈うっていて、装置をつけてはいるものの呼吸も落ち着いた状態です。 頬を撫ぜ、髪を撫ぜ、額を擦って何回も呼んでみると、今にも今まで通り 「うっさいなぁ、眠いのにナンだよ!」と文句を言い返しそうでした。 暖かいあけみにまだ諦めずに戻って来いと呼びかけて手を握り擦って撫ぜて お別れに来たのではないのだから必要ないのに涙が驚く程ぼろぼろ流れました。 意識が無くても呼吸や鼓動が自発的にあるのを植物状態だのと呼びますがこの場合脳は生きています。 混同し易いのは、脳死とは装置によって呼吸は確保されていても脳は生きていないという事です。 脳死の場合はどんなに装置で呼吸を確保していても、やがて1週間とかのうちに脳のみでなく全身が死んで逝ってしまうという状態を言います。 あけみが脳死と判定されて薬を減らす形で自然に逝かせる、というのは安楽死をさせるとかの事ではなく、35分以上に及んだ心肺停止状態による酸素の不足が原因で脳が再び生き返らなかったという事なのです。 それだけの事です。 心臓がやがて止まり脳は機能しなくなっていて生命が終わったという、 ただそれだけの人の終末に必ず来る事があけみに今起きているだけなのです。 でも彼女の声や話し方、歩き方、笑い方、泣き方、拗ね方、怒り方、 ふとした仕草や声や視線の動かし方、そんな彼女固有の総てが終わる って、ここに存在しなくなってしまうなんて事を、 一つの脳死判定の例として考える事が出来ません。 一つの命には必ず個性があるという事です。 その個性は家族にはもちろん近しくしていた人々にも掛け替えの無い愛しい命に違いないという事です。 何も出来ない、祈りも届かなかったけど私はまだ最後の一瞬まで祈っています。 今からでも急いで戻って来いと! 地元では皆が知っている人ですからあちこちに暗い寂しそうな眼差しが蔓延しています。 それでも人はそれぞれの毎日を生活していかなければいけないのです。 心から心配して悲しんでいても普通の生活も同時に営んでいかなければなりません。 そんなギャップをどう埋めて時間に身を任せていれば良いのか、 重く苦しい思いで過ごしています。 東京にも本当に雪が降って薄っすらでも白くなってくれるのでしょうか。 あけみにみせてあげたい清浄な景色を病院の窓の外にも繰り広げてくれるでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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