全て
| カテゴリ未分類
| こころ・身体
| 気持ち
| 趣味や好みなど
| 生活環境/季節
| ふるさと
| 六十六部供養塔始末
| 文化・伝統
| 思い出
| 吟
| 散策・紀行など
| 放射能汚染・原発
| 七二会
| 自分
| りんりん
| 温泉など
| 動植物
| 民泊問題
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日は64回目の終戦記念日、アメリカでは戦勝記念日 でも本当は敗戦記念日ってところかもね。 64年前のこの日も今日みたく真っ青に晴れた暑い夏の日だったんだろうな。 前の日やこの日にすらまだ亡くなった人がいたと言う。 人は結構しぶとく生きるけど、反面驚く程簡単に死んでしまうものだ。 さっきまで話して笑っていた人も、次の瞬間撃たれたり砲弾の破片が刺さったりして物言わぬ体に変わってしまった事だろう。 死という事が日常茶飯事になってしまう世界ってどんなに恐ろしい世界だった事だろう。 現代は親戚や近い知り合いとかの葬儀でも無ければ亡くなった人を見る事は稀である。 動物の死体すらほとんど見る事が無い生活をしている。 それが64年前までは、大人も子供も当たり前に「死」が近い存在としてあったし、受け入れるしか出来ない世界に生きていたなんて信じられない。 生まれたらその日から死に向かって生き続けるのが人間だと言われる。 幼い頃、自分もいつかは死ぬのだと知った時の恐ろしさ 毎日夕方になると恐怖で泣いたのを覚えている そのため両親は夕方暗くなる前に雨戸を閉めて、室内を明るくして気を紛らわせようとしてくれたそうだ(何て手のかかる子だったんでしょ) のどかに毎日好き勝手に生きていられる自分達が当たり前なのかもしれない。 でもこれこそが信じられないくらい大きな幸福なのだろう、きっと。 特攻隊員が出撃の前日に蝉の声を聞いて、この蝉の子供達は7年後に再び地上に出てくるのに自分達はあと1日の命なのだと話したと読んだ。 回避出来なくての死、ではなく、絶対確実の死を強要されるという理不尽と恐怖。 家の隣の八幡山辺りには大きな木々が茂るので、もうずっと蝉の声が激しく聞こえている。 蝉しぐれなんて優しいものじゃなく、まるで蝉集中豪雨と言った方が良いような音だけど、短い命を精一杯生きる小さい虫達の営みが愛しく感じられる。 ところで先日の大雨で、東名高速道路が崩れ落ちて一部通行止めとなっていたが、テレビの中継で重機がどんどん投入されて行く場面を流していた。 思わず、日本も本当に随分発達したもんだとつぶやいてしまった。 64年前の日本ではブルドーザーなんて知られていなかったし見た事も無い人が多かった。 ガダルカナルに飛行場を造るのも兵士達が何日も手作業でやった。 そこを爆撃され破壊されても、もう補修する人数も工具も無かった。 アメリカ軍はそれをたったの一日で造り上げる能力があった。 フィリピンのルソン島北部山地における戦闘時も、戦車が通れないように山道や橋を爆破して時間を稼いだつもりだったのに、アメリカ軍は次の日にはちゃんと進軍して来て驚いたとの記が残っている。 日本兵達はブルドーザーを初めて見て、変わった形の戦車だと不思議がった人もいたそうだ。 夫にはおまえはいったい何年生まれなんだと笑われたけど 思えば開戦当時世界トップの性能を誇り無敵だったゼロ戦を作った日本も、その後の進歩に追随出来ず、レーダーの無い過酷な戦いで次々と被害を広げるだけだった。 戦争でそんなにも遅れてしまった日本の産業技術の進歩が、今は世界でも有数の高いレベルになっている事を思った時、64年前の日本兵の悲惨さが思いやられてしまった。 竹槍での突撃だの座布団爆弾を抱いて戦車の下に飛び込むだのベニヤで作った特攻モーターボートだの、もう数えきれない程の悪足掻きを強いられた日本兵達が哀れで可哀想で・・・。 でも本当にそんな世界が存在したのであって、決してパラレルワールド的にどっか遠くであった事じゃない。 今朝も息子達に今日が何の日だったかを覚えているかメールを打った。 しつこい婆と思われたとしても、これは生涯私が我が子達への警告の一つとして啓蒙し続ける義務だと考えている。 3月10日、8月6,9日、8月15日、12月8日の度にしつこく再確認のメールを出している、これからもずっと、来年も再来年も お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|