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昨日はお彼岸で実家のお墓参りに出かけて来た。 赤羽の桐が丘という所にある墓所は、起伏の多い地形と駅から遠いのとで、両親はもう行く事が難しくなっている。 春秋のお彼岸には私がこの6年間代参を続けている。 私は毎回家から40分ほど歩いて行っている。 赤羽の駅前からは高台の赤羽台団地の中を通り抜けて行く。 古い団地は建物と建物の間を広く取ってあり、植えられた木々は大きく陰を作り気持ちが良い。 春には桜並木がそれは見事だし、野鳥もいたりなかなか良い環境の場所だと思っている。 赤羽台は昔陸軍の施設が大きく建っていた土地で、戦後次第に開発された所である。 赤羽台団地は昭和37年に東京23区内では初めての大規模団地として建築された。 当時は団地での生活は憧れの的であり、募集に対しての応募数がかなり多かったそうだ。 古い日本家屋に舅姑と一緒に暮らしていた大家長の時代から、核家族化への大きな流れの一手を担っていたのだろう。 団地の一階には商店街が出来、日用惣菜から何でもそろう便利さだった。 人々で街はにぎわい、子供達の歓声が日々響いていた昭和だった。 現在の赤羽台団地は老朽化が進み建て替えが始まっている。 老朽化したのは建物だけではなく、住人もどんどん老いて行った。 子供達の声はまばらになり、商店のシャッターが一つ、また一つと閉じたまま開かれる事が無くなって行った。 休日の昼間でも殆ど人が通らない「かつての」商店街。 ぽつんと置かれたベンチは、時々老いた男性がお弁当を食べていたりする。 階段だけでエレベーター設備の無い5階建てだったりすれば、買い物の不便さが際立ってもしょうがない。 南向きの明るいベランダがあっても、そこで寛ぐ人々がいなくなっていた。 ずっと以前は人々が溢れ、大売り出しや祭りでにぎわったであろう場所 建て替えを待つこの一棟は、既にほぼ無人の状態となっていて自転車置き場には錆びた自転車が倒れていたりする。 完全な無人状態であったなら、こんな何とも表し難い寂しさは感じなかったと思う。 まばらに残る住人達、ほとんどが老人、が歩く姿がどうしても「とぼとぼ」だの「よろよろ」だのと見えてしまった。 時代が去り、子供は成長し、人が去り、建物が去って行く。 過ぎてしまったにぎわいが風と共に一瞬聞こえたように思える場所になっていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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