テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:戦争ってなんだったんだろう?
東京書籍の中学歴史教科書から
「日露戦争さなかから、韓国は日本による植民地化の動きにさらされていきました。1905年に外交権を奪われ、1907年に皇帝が退位させられ韓国の内政は韓国統監府ににぎられました。このため国内では民族抵抗運動が広がり、日本によって解散させられた兵士達は、農民とともに立ち上りました。これは日本軍によって鎮圧されましたが、日本の支配に対する抵抗は、その後も続けられました。 1910年、韓国は日本政府に併合されました。」 現在、扶桑社の「新しい歴史教科書」以外、他社の歴史教科書でも似たような記述となっています。 かつて日本は韓国を不当に植民地化し抵抗する韓国人を武力によって鎮圧し無理やり併合してしまったと言っています。 実際にはそんな簡単なものではありませんでした。 日露戦争前、韓国政府は親露的でしたが、開戦するや日本が有利とみた韓国は親日に傾きます。 そして開戦間もなく韓国は1904年(明治三十七年)二月二十三日、日韓議定書に調印します。 韓国が日本の忠告を受け入れ施政を改善すること、韓国の独立と領土保全を日本が保障することの約束を交わしたのです。 また同年八月二十二日この時第一次日韓協約において、韓国は日本人の財政顧問、外交顧問の諮問を受けることを認めます。 1905年(明治三十八年)日本は日露戦争に勝利します。ところが日本は余力を残さぬ辛勝であり、一方のロシアは余力を十分に残した敗戦ですから韓国がいつまたロシアに傾くかわかりません。 朝鮮半島でのロシアの脅威は去ったわけでなかったのです。日本はロシアとポーツマス条約を結び韓国を日本の保護国とすることを承認させました。 これを受けて第二次日韓協約が締結され、日本が派遣する統監が外交に関する事項を管理するものとし、初代統監に伊藤博文が就任しました。 この時点ですでに韓国を併合すべしとの意見もあったのですが日本には日露戦争により余力がありません。 本国を防衛した上に韓国を防衛する余裕などなかったのです。 第二次日韓協約では韓国がロシアに傾かぬよう外交権、防衛権を掌握することだけを取り決めます。 日本は韓国が自力で近代化を果たし韓国自身で自国を防衛することを望んでいたからです。 ところが第二次日韓協議の取り決めにも関わらず、1907年6月、韓国皇帝はオランダのハーグで開催された万国平和会議へ密使を送り独立回復をうったえます(ハーグ密使事件) この事件をきっかけに伊藤は高宋皇帝を廃立します。(廃立とは臣下が君主を退位させ別人を即位させること) このことで日本では一気に併合を進めるべきだと声が高まりますが、第三次日韓協定では統監が韓国内政に関して指導する旨を取り決めただけでした。 この段階でも日本が韓国を併合しなかったのは最大の理由は伊藤博文の存在でした。伊藤は韓国の将来性を高く評価していたのです。 伊藤博文が韓国を支配していたと思われていますが、むしろ韓国人を評価し韓国自身による統治を願っていたのです。 1909年(明治四十二年)十月二十六日、伊藤は皮肉なことに日本の支配に反対する安重根に暗殺されてしまいます。 伊藤が暗殺されたことで流れは一気に韓国併合へ傾いてしまいます。また韓国国内でも「一進会」などが積極的に併合を訴え活動していました。 こうして1910年(明治四十三年)八月二十二日、韓国併合条約は調印され併合に至ったのです。 以上で判るように日本は最初から朝鮮半島に侵略の為に進出したのではありません。 ロシアの脅威がせまる中、一向に近代化、独立しようとしない韓国に自立自衛出来るために協力しようと努力していたのです。 韓国がロシアに侵略されていたとすれば今日の日本も韓国もなかったことは言うまでもないでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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