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岩手県平泉(ひらいずみ)町の中尊寺(ちゅうそんじ) 本堂。ご本尊は阿弥陀如来です。 国宝中尊寺金色堂。奥州藤原氏が建立。 内部は撮影禁止です。金銀螺鈿(らでん)目がチカチカするような金箔の豪華な装飾でした。 ご本尊阿弥陀如来。奥州藤原氏初代藤原清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の三体を祀っています。四代藤原泰衡の首級が納められています。 平安時代、浄土教の極楽浄土を願い阿弥陀様を祀り、豪華な寝殿造りを建てたそうです。 芭蕉翁像と奥の細道碑 夏草や 兵どもが 夢の跡 平泉を訪れた松尾芭蕉の俳句。 源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡してから500年後のこと。 かつて東北の中心として栄えていた栄華もなく、今となっては夢のようであり、見渡すのは夏草だけである。 「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら、詠んだそう。 中尊寺の登り口に、武蔵坊弁慶の墓「弁慶の立ち往生の地」があります。 弁慶は「牛若丸(義経)と弁慶」物語りでも有名な、源義経の家来です。 義経は平家を滅ぼす活躍をし、後白河法皇から位を受けたが、兄の征夷大将軍源頼朝に無断で位を受けた事で、兄から追われる身となる。 鞍馬山を逃亡し、藤原三代目の秀衡を頼って、北陸伝いに平泉に逃げて来ました。 奥州平泉は、義経をかつてもかくまってくれた地でした。 藤原秀衡は頼朝からの引渡要求を拒みましたが、息子の代に変わり、藤原四代目の泰衡は、頼朝を恐れて義経を自害に追いやった。 主君の義経堂が焼き討ちされると、弁慶は最後まで主君を守って戦い、無数の矢を体に受けながら、遂に衣川にて立往生しました。 そののち源頼朝は、義経を匿った罪により藤原氏を攻め滅ぼし、奥州を頼朝の支配下としました。 写真は平泉・中尊寺への道脇の田です。 刈り取った稲の干し方が変わっています。 1本の杭に稲束を積み上げ巻いている。「ほにおがけ」と言うそうです。 コロンとしてて、なんだかカワイイ。 いつも目にしていた「はせがけ」という、地面に平行な杭とは違います。 稲の乾燥の仕方も、地方で変わるんですね。 でも最近は、この光景もあんまり見かけなくなりましたね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/10/05 11:55:19 PM
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