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カテゴリ:西尾市(一色・吉良・幡豆)/幸田
案内板より『古城公園(東条城跡)東条城は中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城です。 現在、城は独立丘陵に位置するように見えますが、本来は茶臼山(291m)から伸びる尾根の先端部にあたり、現在の県道は尾根の掘り切り部分を通っています。 城の東から南の沼田は藤波畷とよばれ、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割を果たしていました。 永禄4年(1561)に東条城は松平元康(家康)軍の攻略を受け落城し、東条城には城代松井忠次(後の松平康親)が入城しました。 天正3年(1575)に松井は牧野城に転封となり、東条城は廃城となりました。主郭を中心に曲輪をめぐらす中世の城の特徴をよく留めています。』 帯曲輪(おびぐるわ) 城の周辺を細長い地形を組み合わせて守りを固めて、形が帯のように連なることから帯曲輪といわれます。 『東条城の歴史』 鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利善氏が三河守護・吉良荘地領となった。 その三男善継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。 以後、十四代義昭に至って滅びるまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江の重要拠点であった。 南北朝時代、四代貞家は奥州管領として東国に赴いた。その後裔が関東吉良氏である。 室町時代、応仁の乱(1467~)では、十代善藤は山名宗全に見方して、細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わった。 十二代持広は、松平清康(徳川家康の祖父)の娘を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり松平一門の危機を救った。 家康は桶狭間合戦以後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄四年(1561)東条城を攻め、十四代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。 しかし、天下を掌握した家康は、十三代義安の子義貞を旗本に取り立て吉良家を再興した。 これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。 落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立した。 家忠の伯父松井忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられて周防守康親と名乗った。 天正九年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。 康親は天正十一年に没したが、子孫は多く幕府の要職についた。 忠吉は関ヶ原合戦後尾張清洲城主となるが慶長十二年(1607)に没し、後嗣なく東条松平家は断絶した。 また、ここには高名な文人・武人が多く訪れている。 室町時代に歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。 武人では、織田信長・徳川家康も鷹狩りにことよせて訪れている。 東条城は、天正十八年(1590)に家康が関東に移った後廃城となった。 それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。 所在地:愛知県西尾市吉良町駁馬(まだらめ)字城山 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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