|
テーマ:=愛知=(477)
カテゴリ:大府/東浦/東海/半田/知多
坂部城は、久松定益が築城したといわれる平山城です。
当時は、阿古屋城、阿久比城とも呼ばれていました。 天文16年(1547年)、徳川家康生母の於大の方(20歳の時)は、坂部城の久松俊勝の元に最嫁し、俊勝が岡崎城代として移るまでの15年間在城しました。 於大の方と久松俊勝の間には三男三女と子宝に恵まれています。 一方、岡崎に残した竹千代(家康)は、織田さらには今川の人質として苦難の月日を送っていました。 坂部城にいた間、於大の方は、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類や菓子を送り続け、後に徳川家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたといわれています。 永禄3年(1560年)5月17日、於大の方(33歳の時)は、桶狭間の戦いを控えた家康(当時は松平元康)と、この地で母子16年ぶりの感激の再会を果たしました。 このとき家康の異父弟(康元、康俊、定勝)たちは松平の姓を与えられました。 桶狭間で今川義元が敗れ、家康は長かった人質生活から独立します。 織田信長と清洲同盟を結び、阿久比の地は織田氏の支配下となりました。 永禄5年(1562)於大の方(35歳の時)、夫の久松俊勝は家康に取り立てられ、蒲郡の西郡城主となりました。 坂部城は信俊(先妻の子)に譲り、西郡の上ノ郷城は康元を置いて、夫婦そろって岡崎へ移りました。 と、ここまでは良かったのですが。。 天正3年(1576年)於大の方の異母兄であり家康の伯父にあたる水野信元が、佐久間信盛の讒言で織田信長から武田勝頼との内通の疑いをかけられ、家康に指示し、三河大樹寺において殺害された。 俊勝はそんな事になるとは知らされずに、家康に頼まれ信元を迎えに行った。 家康の冷酷な仕打ちに激怒した俊勝は、上ノ郷城に籠もり、三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力した。 天正5年(1577年)坂部城主の久松信俊(俊勝の長男)は、石山合戦の際には佐久間信盛の指揮下で石山本願寺を攻めていましたが、佐久間に陥れられ、信長に久松氏はかつて一向宗を保護していた事を取り上げ、憤慨した信俊は大阪四天王寺にて自害した。 坂部城は、信盛の手勢によって攻められ、落城炎上しました。 そののち、佐久間信盛は石山本願寺攻めに難航、信長から指揮の不備を問責されて改易された。 天正16年(1588年)於大の方(61歳の時)夫の久松俊勝が前年に亡くなり、夫の眠る蒲郡安楽寺で剃髪し尼となり、伝通院の号を授かりました。 慶長7年(1602年)、天下をとった家康の招きで伏見城を訪れていた伝通院於大の方は、75歳で生涯を閉じました。 綿畑(わたばた)坂部城へ嫁いで来た於大の方は、里の人に綿の栽培を勧め、自らも綿づくりに励んだそうです。 坂部城址の、この小さな綿畑は、記念に造られているようです。 坂部城所在地:知多郡阿久比町卯坂字栗之木谷 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[大府/東浦/東海/半田/知多] カテゴリの最新記事
|