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カテゴリ:大府/東浦/東海/半田/知多
東浦町郷土資料館に、於大、水野忠政、徳川家康の木彫像や資料がありました。 郷土の歴史や文化が紹介、展示されています。 水野忠政(1493~1543)は名古屋市博物館所蔵の画像を参考に思慮深さを表現したそうです。 水野氏の本城である緒川城の城主で、於大の父。 戦国時代、織田氏と今川氏の両戦国大名の間で、水野一族が知多から三河にかけて勢力を維持するのは困難な道だった。 忠政は刈谷城を築き拠点を移した。 娘の於大を岡崎城主松平氏に嫁がせ、於大が家康を産んだ。 その翌年没し乾坤院に葬られる。 於大の方(1528~1602)は刈谷市楞厳寺所蔵の「鏡の御影」画像を参考に凛とした強さを表現したそうです。 緒川城に生まれる。父は緒川城主水野忠政。母は於富の方。 14歳で岡崎城主松平広忠に嫁ぐ。翌年家康を産んだが、水野氏が織田方についたため、3歳の家康を残して岡崎を離縁された。 後阿久比城主久松俊勝に嫁ぐ。 離れてはても、幼くして熱田・駿府にあった家康の身を案じ、人を遣わして励まし続けた。 今川義元亡き後は、夫俊勝と共に家康の天下統一を支えた。 京都伏見城で家康に看取られて75歳の生涯を閉じた。江戸伝通院に葬られる。 徳川家康(1542~1616)は東京都の浄光寺所蔵の画像を参考に人間としての器の大きさを表現したそうです。 母は水野氏の娘於大の方、岡崎城主広忠の嫡男として生まれる幼名竹千代。 今川義元の人質として駿府で成長する。 於大の母・源応尼に養育され、今川の軍師太原雪斎を師とした。 義元が桶狭間で戦死すると、岡崎に帰り織田信長と同盟を結び三河を平定、遠江・駿河へ進出した。 信長の死後、豊臣秀吉と戦うが和して巨従、関東6か国に移封され江戸城に移った。 関が原の戦いに勝利し、1603年征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。 東浦町郷土資料館所在地:愛知県知多郡東浦町大字石浜字桜見台18-4 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021/10/21 03:47:26 PM
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