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カテゴリ:山口
みもすそ川公園は源氏と平家の最後の合戦である壇ノ浦の合戦の古戦場や幕末の攘夷戦の古戦場址。頭上には関門橋が望め景色が素晴らしいところです。みもすそ川公園内には源義経と平知盛の像、長州砲のレプリカが展示されています。
平清盛亡き後の寿永四年(1185年4月25日)、平知盛を大将とした平家と、源義経ひきいる源氏が、この壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え年8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡しました。 壇之浦の合戦、左が源義経・右が平知盛。 源義経は平氏随一の猛将・平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわす「八艘飛び」をしているところ、右が平知盛が碇を背負い入水しようとしているところです。 ここが源平最後の決戦地なんだな~と、海を見つめていました。 「安徳帝御入水之処」 孫である数え年8歳の安徳帝をつれて入水した二位尼の辞世の句の碑があります。二位尼(にいのあま)は平清盛の正室(継室)平時子のことで、娘の徳子(後の建礼門院)の子供である安徳天皇の祖母に当たります。 二位尼の辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」 「海の中にも都はある」と、二位尼は幼い孫の安徳天皇をなだめ抱きかかえ入水したとか。(涙) 源頼朝から「平清盛なくして武家の世はこなかった」言わせしめた平家の滅亡です。 こののち日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。 熱田神宮の御神体でもある三種の神器の一つ草薙剣は、壇ノ浦の戦いで平家滅亡と共にこの海に沈んだとも言われています。
幕末、関門海峡での6次にわたる蝦夷戦(外国人をしりぞける)は、元治元年(1864)8月、幕末に長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州藩の砲台は破壊され青銅砲は戦利品として外国に持ち去られた。いまあるのはパリに保管されていた蝦夷戦長州砲のレプリカです。たとえレプリカといえ、関門海峡に向け長州砲が並んでいるのを見るのは、鎖国から目覚めたときの歴史的物証のようですね。 みもすそ川公園には駐車場が無く、唐戸市場の駐車場から歩きました。途中に赤間神社があります。 住所:山口県下関市みもすそ川町1 下関駅から、みもすそ川公園・壇ノ浦古戦場址までは少し距離があります。
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最終更新日
2012/05/19 06:17:05 PM
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