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カテゴリ:山口
道の駅・萩往還に建てられている松陰記念館。吉田松陰は松下村塾を主宰し、幕末・維新に活躍した多数の志士達を輩出した。松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍し、これが倒幕運動につながってゆく。
萩往還(はぎおうかん)は、長門国の城下町である萩(山口県萩市)と周防国三田尻(山口県防府市)を結んだ街道のことです。毛利輝元の孫にあたる長州藩の萩城主・毛利綱広が萩往還を造った。 吉田松陰の生涯(1830-1859)松陰は萩藩の下級武士の家に生まれ、幼い頃より兵学と経学の厳しい教育を受け、10歳から藩校に出任し、19歳で独立師範となりました。幕末25歳のとき、外国の脅威を体感し海外を知ろうと渡航を試み失敗し、江戸伝馬町に投獄され萩の野山獄に送られました。獄中では膨大な書物を読み囚人や看守に講義するようになり、杉家幽因生活でも講義は続き、それが松下村塾へと発展して行きました。松下村塾では身分や階級にとらわれない教育を行ない、高杉晋作・久板玄端、伊藤博文など維新の原動力となった逸材を育てました。「安政の大獄」により江戸の獄に送られ、30歳の若さで生涯を終えました。しかしその後も松陰の教えを受けた塾生達へと志は受け継がれ、明治維新そして近代国家成立へと大きな原動力となりました。左から、高杉晋作・吉田松陰・久板玄端の像(萩往還公園)松陰の教えを受け「松下村塾の四天王」と呼ばれた高杉晋作・久板玄端(吉田稔麿・入江九一)は幕末の長州藩士。尊王攘夷派の中心人物となる。 左から、山縣有朋、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文の像。ヒゲモジャの伊藤博文さんしか知らなかった。左から、品川弥二郎、山田顕義 後ろに見える萩焼のお店は他の物産展より安かったです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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