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池ノ原公園には、田原藩江戸詰家老であり幕末の蘭学者・画家でもある渡辺崋山(1793-1841) の銅像と、蛮社の獄により蟄居を命じられ、晩年を過ごした屋敷跡があります。田原城跡から池ノ原公園まで徒歩5分、“椿の道”で繋がっています。(愛知県田原市田原町池ノ原)渡辺崋山銅像
渡辺崋山(通称・登)は、田原藩上士の家に生まれたが、田原藩は1万2000石の小藩のうえ、貧困な家庭だったため、幼少の頃より、得意だった絵画を売り家計を助けました。 のちに西洋画法を学び、遠近法・陰影法などを取り入れた、独自の名作を世に送り出しました。 崋山は40歳で、田原城11代藩主・三宅康直の家老となってからは、財政困難な田原藩の繁栄に貢献し藩政改革に励んだ。 天保の大飢饉には、倉(報民倉)に米を備蓄し、1人も餓死者を出さなかった事から、全国で唯一幕府から表彰されました。 渡辺崋山屋敷跡 晩年の渡辺崋山は、鎖国をとっている日本が世界水準から遅れている事を憂い、モリソン号に対する幕府の政策を批判した『慎機論』を執筆途中、内容が過激と思い未発表にしましたが、幕吏が崋山の自宅を捜索した時、『慎機論』が発見され、蘭学者を弾圧する蛮社の獄により、田原に蟄居を命じられました。 我が田原は三州渥美郡の南隅にありて・・・ 『慎機論』の始まりには藩名を書き、内容は幕政批判に当たるため罪を負った。 田原藩主に災いの及ぶ事を恐れた崋山(49歳)は、ここで自刃しました。 その後、先覚者渡辺崋山の『慎機論』は筆写され、多くの知識人や幕末の志士にも読まれる事となりました。 池ノ原公園内には、茶華道等の文化交流の場として建てられた池ノ原会館があり、お抹茶会が開かれていました。渡辺崋山を主神とする崋山神社 田原城から歩いて1分、出丸(新倉)に建てられた崋山神社。 今も地元の人々は、渡辺崋山の霊を慰め遺徳をしのび、毎年命日の10月11日に崋山大祭が開催されます。 ホテル・旅館ランキング(東海/愛知) 楽天トラベル お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021/10/21 03:32:32 PM
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