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カテゴリ:瀬戸/長久手/尾張旭
毛受勝助家照(めんじょうしょうすけいえてる)の銅像が尾張旭市文化会館前にあります。
毛受勝照は水野照晶の子として生まれ、稲葉村に移住し姓を毛受と改めました。 毛受勝助は、尾州春日井郡稲葉村(現・尾張旭市稲葉町)の人で、12歳のころより柴田勝家に仕えていました。 元亀2年(1571年)伊勢長島の一向一揆の戦いに、17歳で参加し、敵側に奪われた勝家の馬印を取り返した戦功により、勝家の2文字を授かり毛受勝助家照と称しました。 後に、近習となり越前で1万石を領しました。 天正11年(1583年)柳瀬の役・賤ヶ岳の合戦に従う。 羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで柴田勢は総崩れとなり、毛受勝助は主君・柴田勝家を北の庄城に退去させるため自ら身代わりとなり、勝家の馬標「金の御幣」を立て敵を引き付け、兄・茂左衛門、弟の家照ら柴田方200名の兵と共に討死しました。享年29歳。 秀吉は、敵ながら毛受兄弟の忠節に心を打たれ、遺族を捜して手厚く保護したそうです。 明治に入り、滋賀県長浜市余呉町新堂に毛受兄弟之墓が建てられ、地元の史跡保存会により1世紀に渡り供養が営まれているそうです。 尾張旭市文化会館:尾張旭市東大道町山の内2410番地の11 毛受の子孫は明治初期に再び姓を水野姓に戻しました。 毛受勝助家照出生地碑が稲葉町の民家、水野家の庭にありました。一之御前神社には、「検藤流棒の手之碑」があります。「検藤流」は尾張旭市の旧稲葉村に伝わる流派です。 柴田勝家の家臣で、稲葉村出身・毛受勝助照の子孫が、村民に棒術を教えたのが始まりと伝えられています。 一之御前神社:尾張旭市稲葉町三丁目164番地 稲葉町にある少林寺は尾張城東西国三十三観音霊場の23番札所でもあります。 小林寺の墓苑の一角には毛受、水野の墓所があり多くの墓石があります。 雲龍山少林寺所在地:愛知県尾張旭市稲葉町2丁目71 英語(日本国内の施設)Language:English お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021/10/21 01:13:29 PM
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