霊的いじめがキリスト教会にある つづき
昨日の続き8.パリサイ人たちは、人々に自分たちの規則に従いなさいと言いました、 さもなければ我々はあなたと係わり合いはないと宣言しました。 仲間に入れないといって、神の裁きが下ると教えました。 律法主義は神を超えてルールを作り、 人に対して必要以上のルールを押しつけます。 ルールを守ろうとする厳格なライフスタイルは、霊的奴隷状態をもたらします。 律法主義は未熟な人を作り上げ、人に頼りすぎるようになり、心理的な害は恐ろしいほどです。 9. 律法主義は孤立主義を奨励します。 外部からの説教者はめったに呼ばれませんし、もし許されても慎重に選びます。 他の教会の人々は霊的に劣っているとリーダーたちは、見なし、 普通の教会の人とびとの交わりを避けさせようとします。 教会は、キリストの世界的な群、キリストのからだとして考えられていません。 その代わりに自分たちのグループは他の人たちのグループより優れているので、 交わりを持つ必要などないと考えています。そのような心理状態が、そのグループにはあります。 10.イエスは、さばき主義に走ることを警告しています。「さばいてはいけません。(あなたが)さばかれないためです。」(マタイ7:1 第1コリント4:5、ローマ14:4,10、 ヤコブ2:13.) これらの聖句はクリスチャンが正しい健全なものかどうかを見分ける力と判断をする力を養うことを避けるという意味ではありません。 しかしながら、ある教会はこれらの聖句のもつ霊的な意味合いを間違って取っています。 マイナーな問題と良心から発せられる疑問に対して、私たちは意見が違うからと言って、 他の群の信者をさばいてはいけません。 否定的な判断(さばきとか意見)は、往々にして聖書がまったく述べていない事がら、 また歪曲したことばの解釈などからやってくる意見の相違がほとんどです。 11.律法的であることは、人々を攻撃します。 なぜなら宗教的ルールを並べ立てることによって自己修養を要求させ、そんな人を霊的だと思わさせます。 けれども行き着くところは、霊的プライドのかたまりとなります。宗教的な規則は、人の心を良い方へ変えることはできません。 ただ神の霊だけがそれ(コロサイ2:23)をすることができます。 今日は一挙に後半を書いてしまいました。 論文みたいなものになってしまいましたが、こんなブログもあってよいのではないかと、自分勝手に悦に入っております。 ちょっと常識を働かせれば、どんな教会が良くてどんな状態の教会が悪いかは、すぐに見分けがつくと思います。 でも問題は、見分ける側の人の心が真理を求めている時に限りますけれどね。 自分勝手な教師を寄せ集めて、耳障りの良い話をキリスト教会がしているのではないかと思われるほどです。 それが困りものです。 ご愛読感謝します。