タクツァン登山
ブータンでの最大でのハイライトはブータンを去る前日に用意されていた。タクツァン僧院への登山である。もう3年ぐらい前になるだろうか、清里フォトミュージアムで私は新進カメラマンのブータン写真展を見た衝撃を忘れられない。たくさんの写真の中でも険しい岩山に張り付くように建っている、霧の中に浮かぶタクツァン僧院は目に焼きついている。その時はブータンという国はずっと遠い国、ましてそんな岩山を登った僧院など行かれるわけがない夢のまた夢の場所だった。けれど夢でもいいから行きたいと思ったものだった。夢が現実になった。2,500mぐらいの駐車場から3,100mの僧院まで登れるだろうか。空気の薄いところで高山病にならないだろうか。荷物は何を持って行けばいい?出発前夜のホテルで夢が叶う現実を前に、興奮は極限状態だった。財布からいくつかの僧院に置いてくるお賽銭の紙幣を抜き出したり、ナブサックに入れて持って行くものを確認したり。日本を発つ時、タクツァンシュミレーションしたにも関わらず、まだ心配。翌朝の服装は暑くなった時の半袖スタイル、運動靴はこの登山を想定して日本から履いて来た。標高が高くなって寒くなった時と僧院に入るためのドレスコード長袖、長ズボン。タオルと飲み物とカメラを入れた軽いナブサックを背負う。財布は持たない。これはkaycomさんのブログで学んだ。各寺院で置いてくるお賽銭の5ヌルタム紙幣10枚ほどをポケットにねじ込む。アサミちゃんが、「リタイアするかもしれない」という我らをあきれながらも、女性陣3人に1人ずつガイドを付けてくれた。1人は山登りのための助っ人ガイドのタイガさん(ブータン名は知らない)。さあ、車に乗ってホテルを出発。2,500mほどの松林の中で車を降りる。そこには何頭かの馬が繋がれていた。頼めば600円ぐらいで途中のレストハウスまで乗せてくれるそうだ。見上げれば目的のタクツァン僧院がそそり立つ岩山にへばりついているのが見える。あそこまで行くのだ!。右側の山の中腹の白い建物が終点しばらくはなだらかな林の中をゆるく登る。日本と同じ緑豊かな林の中。ただ水車で鐘を鳴らして回るマニ車があることだけが違う。 見上げれば僧院はまだまだ上マニ車を過ぎると急な登りになった。私担当のムサシさんが「大丈夫ですか」と気遣って並んで登ってくれる、「いや、大丈夫じゃないけれど、並ばないで、どちらかが谷底に落ちるのは心配だから」そう言って私はそっと山肌側の位置をキープする。手すりも何もない。道幅は狭い。空気が薄い。日頃の運動不足がたたる。歩く道は傾斜各45度くらいになり、乾燥した土の道が運動靴を履いていてもずるずる滑る。タイガさんはそんな道でも麓のパロのレストランで調達した皆の昼食をリュックに背負って登る。こちらは自分の身体だけ持ち上げるのにハアハア言っているのに。途中休みながら麓を眺めるとパロの街がずっと下の方に見えているのに、空には雷鳴が轟きだした。怖い。真っ赤なエトメト(石楠花)の花が咲いている。綺麗。木々からは長い緑の藻のような植物が垂れ下がっている。すごい。心臓はバクバクで思考能力も千々に乱れる。こちらの尾根の高さと僧院が同じレベルになって来た。ふと思った。一番このタクツァンを見たいと願った私がひょっとしたら一番最初に脱落するかもしれない。私が足を止めるたびにムサシさんが「チェ・チリ・タメモ」と旅行中ずっとバスの中で彼らが歌っていたブータンの流行歌を口ずさむ。ゾンカ語で「貴方のことを思っている」という意味で実際は恋の歌らしい。彼はくじけそうになる私を歌うことで気遣ってくれているのだった。大丈夫大丈夫、ここに来ることが夢だったのだもの這ってでも登るよ。実際、急斜面は手を着きながら這うようにして登った。そして着いたところは見晴らしの良い展望台。目と同じ高さの谷の向こう側にはフォトミュージアムで見た、夢にまで見たタクツァン僧院があった。足元には10匹も居ただろうか犬達が寝そべっている。私が到着した頃にはアサミちゃんもコウタさんも寺院に入るためにキラやゴに着替えているところだった。私も長袖を羽織った。さすがにプナカゾンへの入山みたいなカムニやラチュは付けなくても良い様だった。 わずかに見下ろす僧院 目もくらむような崖っぷちで眠る犬ガイドブックに寄れば普通の観光客はこの展望台までとなっている。アサミちゃんが許可申請をしておいてくれたので私達はその先の僧院まで進む。そうは言ってもそう簡単じゃない。あちらの崖の向こうにへばりついている僧院がこちらの展望台とほぼ同じ高さにあるということは、その間にある谷底を500m下り、そしてまた500m登るということになるのだった。登りは標高差プラスアルファということになるのだった。ひゃあ、ムサシさん、引っ付かないで、一列になって。私は手を取って一緒に歩いてくれようと気遣うムサシさんの行為まで振り払って足を踏み外さないようにと全神経を集中するのだった。谷の階段をいったん降り、滝のところで川を渡ると、今度はあちら側にへばりついた階段を上る。途中の僧院には「この犬は危険、触るな」と書いた看板。そのそばを大きな黒い犬がうろちょろ。 谷に降り、そしてまた見上げる僧院。「ありえない」きっと観光客に噛み付いた前科でもあるんだろう。それを野放しにしておく仏教国ブータンのおおらかさというかいい加減さに驚いた。脇を登って歩く犬の恐怖も加わり僧院入り口のチェックポイントに着いた時は足ががくがくで思わず階段に座り込んでしまったのだった。ここまで約3時間の登り。検問所の掘っ立て小屋の前の石畳に、すべての荷物、コート類、カメラ、ウェストポーチを置いて僧院に入る。これをkaycomさんのブログで知っていた私は、財布から抜き出して来たお賽銭をそっとポケットの上からたたいて確認した。カメラを置いていく以上、これから先は写真は撮れない。僧院の門をくぐり、靴を脱ぎ僧院に入る。最初に虎の背中に乗ってこの地に着いたグルリンポチェの姿やその変化の像が狭い石作りの洞窟のような室内に安置されている。まず僧の座所に向かって五体投地を3回繰り返し、そして祭壇に向かって五体投地を3回。空気が薄い分、この運動は辛い。息も絶え絶えだ。そして靴を履き、1段上の僧院に向かった。靴を脱ぎ、五体投地の繰り返し。きっと山を降りる頃には1キロは痩せているはず。この日は3つの僧院とタイガーネスト(グルリンポチェの乗ってきた虎の巣)を見学できた。洞窟の割れ目から恐る恐る虎の巣を見下ろす時、タクツァンがいかに岩の上に微妙に乗っかって建っているか痛感するのだった。僧院見学後、置いてきぼりの荷物を拾い、また階段を下り、階段を登る。曇り空に雨は降らないのに、雷がごろごろと鳴っている。雷龍の国。レストハウスまで戻って犬の見守る中、ガイドたちが背負ってきてくれた食事を取り、残りを犬にやる。後は私にとっては重力の法則に逆らわない快適な下りだった。 レストハウスのところに居た1匹の子犬がずっと最後のマニ車のところまで、後になり先になり着いて来るのだった。