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カテゴリ:生活必需品のご紹介
明日曾祖母の実家のお雛様を私は見に行きます。
「白石人形の蔵」と云う所に飾ってあります。 柴田さんという方が寄贈されたそうです。 以下はホームページの近況に書いたものです。 曾祖母の生まれは私が住んでいる仙台 今の国分町に屋敷があり、増沢という屋号の味噌醤油屋だったそうです。 曾祖母は娘時代に、 北の国に行って若者と寺を建てなさいという まぼろしを見たそうです。 その通りに従ったのです。 お寺の前にはこの事が書いてあるそうです。 夢やまぼろしに押し出されて事を始めるところが 私は似たのかなぁと思っています。 信じて確信したら、迷わず進むところにひかれました。 何不自由なく育った金持ちのお嬢様が見知らぬ岩手に行って、 お寺を建てるとは!途中で投げ出さずに成し遂げたとは! 私は以前から聞いて興味を抱いていました。 若い僧侶と結婚したとき、馬3頭が嫁入り道具でお寺は助かったそうです。 (今回お寺に来て新しく聞いた事実その1です) どこのお寺もそうだったように貧しかったので馬3頭が助かったと言います。 田畑を耕すのに牛や馬を40年程前まで使っていましたから。 祖母の話では、母親は仙台に馬車で里帰りをすると何日も帰って来ないが 「何日したらかえって来る」と言って行くので 毎日1つ○を書いて待っていたそうです。 その馬車の馬が嫁入り道具だったのでしょう。 私が小さい頃岩手では馬車が荷物を運んでいました。 時は過ぎ、話は変わりますが 私の父の代には、農家が暇な時期には岩手から 隣り近所の人を連れて出稼ぎに行ったそうです。 実際に行った叔父の話では、 大きな醤油や味噌の樽が沢山あってみごとだったとのこと。 ところが昭和27年仙台の増沢屋の跡取り息子が 東北大学 大学院生のとき蔵王で雪山遭難! (私はその年の2月生まれです。) お姉さんは北海道の医者に嫁いでおり、後を継ぐ人がおらず、 大きい醤油屋をたたみ、そこにはビルをいくつも建てたとのこと。 リフレのお客様が話していました。国分町に稲荷神社(かもい)があって、 取り壊すことになり、お父様がお金を出して原ノ町に移したそうです。 (うーん時代的にあいますねぇ) 遭難した青年の写真は私もよく父に見せてもらいました。 ハンサムな長身な青年で私の家族と記念写真に納まっていました。 柴田さんという苗字だそうです。 (柴田さんという苗字は、今回新しく聞いた事実その2です) 柴田家は又、東北電力の大株主で電気を起こして東北電力に供給していたそうです。 (東北電力の大株主は、今回新しく聞いた事実その3です) お墓には今でもめずらしいと思いますが墓石前に電気が付いていたとの事 増沢屋のおひなさまが陳列されてあることを、たまたま、つけたテレビで 見たことがあります。毎年展示すると言っていましたが、その場所は仙台ではなく、 記憶に留めることが出来ませんでした。 宮城県県南の市だったようにうろ覚えで悔やまれます。 宮城県白石市 白石人形の蔵だったかもしれません 今度行って調べてみます。 伊達藩に味噌醤油を納めていた仙台の豪商増沢屋の雛飾り 作ったのは京都の職人・・・・・と話していました。 祖母の嫁入り道具にもおひなさまがありました。 私はそれで遊んだ事をはっきり覚えています。 祖母(操の写真です。私の名前は祖母の名前を貰い、みさ子です) 柴田青年も祖母と似ているお顔をしていました。 曾祖母もこのような顔立ちをしていたのでしょうか? 祖母は賢く、背が高く、美人で大変やさしい人でした。 母と仲が良く、しゅうとと嫁が仲の良い家でした。 曾祖母の夢と柴田青年の果たせなっかた無念 それを時々思い起こそう・・・・・と思いました。 今思ったのですが、二人と私の共通点がありました。 私も山が好きで高校時代は山岳部!体力だけは誰にも劣らず、 テントをキスリングに入れて背負っていくのは、いつもかって出ていました。 今のテントは生地が軽い物で出来ていますが40年前は重く テントを入れたキスリングの重さは18~20キロ それを背負って自転車で1時間こぎ、 バス又は電車に乗って向かう・・・・という登山をいつもしていました。 曾祖母との共通点はといいますと、 わたしは、高校の時 親鸞聖人にあこがれまして、京都の仏教を 教える大学に進みたいと真剣に考えていました。 あるアクシデントが無ければその道に進むところでした。 そして、私が見た夢とは・・・・・・ 夢を見ました2005年3月9日 実用新案申請のため発明協会に行く朝、夢を見ました。 ある建物の前で鍵が開かずに困っていると、 以前担当した障害児たちが、大きくなって5人ほど次のように言うのです 「先生僕たちが鍵を貰って来てあげる」 子どもたちが走りだすと同時に手元の鍵が開きました。大きい声で 「鍵はいらないよー」 と叫びました。起きると主人が「弁護士は要らない」と 私が寝言で叫んでいたと教えてくれました。 発明協会で弁理士はどうするかと聞かれました。 寝言で叫んだ夢のことを思い出し、弁理士の力を借りず、 自分で書いて提出しました。登録なった後その時(順番で) 会うことになったであろう弁理士さんに会うことがありました。 私の事を心配して下さって反対なさいました。 ・・・私は思ったのです。障害者就労支援する事が、 この事業の鍵なのだと。それまで、 仕事が無くて悲しくてたまらない夢を長年度々見ました。 これ以降ピタリと見なくなりました。 障害児の中にゆうき君という健常児が前にはだかって夢に現れました。 1歳の頃家で洗濯機に頭から入ったにもかかわらず、 大丈夫だったお子さんです。私に勇気をくれるため皆で夢に登場してくれたのでしょう。 明日は8時に待ち合わせで白石に行くので早めに寝ます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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