米百俵
何を思ったのか、息子が1万円札を手渡してきた。「んっ? 何だ?」「お父さんにあげる」「どうしたんだ?」「パチンコで儲けたんだよ」この日は、35,000円の儲けだったらしい。(*^o^*)息子のヤツ、知らないうちにパチンコをやるようになっていた。ギャンブルは、家庭の破壊に通じることを諭した。「計画的に使うんだよ?」「分かってるよ」「元を切るような遊び方はするな!」「決めてやってるから大丈夫!」〔あぶく銭〕なので、美味しい物でも食べたいが・・・しかし、この〔あぶく銭〕はNIJIの「米百俵」としたい。さてさて・・・どんな形に変わるのか。(^_-)☆【米百俵】こめひゃっぴょう戊辰戦争(1868年)で焦土と化した長岡藩に、支藩の三根山藩(現在の新潟県西蒲原郡巻町)から見舞いとして百俵の米が送られてきた。窮乏を極めていた藩士は米が分配されるのを一日千秋の思いで待っていた。しかし、藩の大参事・小林虎三郎は、この米百俵は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして、米を売却した代金を国漢学校建設の資金に注ぎ込んだ。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、藩士の子弟だけでなく町民や農民の子供の入学も許された。ここに長岡の近代教育の土台が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人材が輩出された。この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるようになった。「国が興るのもまちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」という小林虎三郎の思想は、多くの人に深い感動を与えた。コメントに返信出来ない場合がございます。どうぞ ご容赦を お願い致します。m(_ _)m