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カテゴリ:懐かし日本
今日は阪神大震災から10年。こないだから特番が組まれ、ああ、もうあれから
10年も経ったのか・・・とつくづく思う。私は当時東京の大学に行っていたので 直接被災はしていないが、家族や友人が大変だったこともあり、 やはり、特別な気持ちがこみあげる。我が家にとっては、今日は更に特別な日。 その3年後に母の大交通事故。そして昨年はおじいちゃんの最期。 これでもか、というほど、1月17日は不吉な日である。 今日はまず、友人とお茶&ランチしに大阪まで出る。 イタリアの結婚式にも来てくれたヤスコ、やっぱりアンタとじゃあ、 3時間はホンマにあっという間やったなぁ~。 そのまま電車に乗って、2時前には姉の家へ。なんと今日は2番目の子の 保育園にお迎えに行く。前から“マッシにお迎え来て欲しい~!”と 言っていたらしいが、こないだ姉から電話かかって来たときに代わって “なぁ、いつ迎えに来てくれるん?”と 言われたら行かないわけにはいかない。すぐに車に乗ってお迎えへ。 保育園に入って教室の近くまで来ると、私達に気づいたと思ったら まだ先生がお話しているようなのに、後ろをキョロキョロ。手も振ってるし! で、出てくるなり・・・“見といてや~!”と言ってダッシュしたと思ったら うんていにまず上り、そして、木のぼり!これを私達に見せたかったらしい。 ひょいひょいと上っていくが、見ている方は怖くて気が気ではないってば! “もうええから、ゆっくり降りといでや~!と言っても、“ゆっくりは嫌い~!” と言って、すんごい速さで降りてきた。マジ、怖いって・・・。 そんなこっちの気も知らずに、“見て~”と今度は縄跳び披露。 そして友達に挨拶に走り回る、走り回る。ああ、そんな事してる間に 小1のお姉ちゃんが帰ってくるってば!とうちの姉はそれで気が気でない。 ダッシュで車を飛ばすも、長女はもう帰ってきていて、同級生の マンションの下に住む友達のところにお世話になっていた。 それも迎えに行き、家に入ると・・・“マッシ~、遊ぼ!” でた!格好の標的!!しかし、いつものごとく、今度はプレステで ダンナもかなり楽しんでいる。ハハハ、こうやってみるとマブダチみたい~。 お姉ちゃんにやらせてもらえない三女は、ゲームボーイを持って 一緒にやってるつもりなのが、また可愛いわ~! その後、晩御飯も一緒に食べることになり、ほとんどのものはもう堪能したので いっちょ普通の居酒屋に行く事にした。そして早くも10時頃・・・ 別れのとき。姉家族とは今回の滞在最後やな。 “なぁ、なんでイタリア帰るん?”と言っていた姪っ子たちも 最後は“挨拶し”と姉に言われても、恥ずかしそうに バイバイ~と手を振っただけだった。 今度会う時はどんなに成長してるかな。いつの日か、イタリアに遊びに来るんかな? 家に帰ると、昼間に電話をくれていた高校のツレ・ヨネに電話する。 てっきり、もう1回会う?とかかと思っていたのに・・・ “先生から年賀状の返事きたー、と思ったらお母さんからで、先生亡くなったって・・・” ・・・言葉が出なかった。先生とは、私達が高校生の時に初めて赴任してきた “ささべん”の事で、その強烈キャラから在学中から、そして卒業してからは すっかりツレの1人になっていた。彼女はしばらくして、ある原因で先生を辞めざるを得ず、 しかし、持ち前のパワーで介護士にやりがいを見出し、老人ホームで働きながら 通信大学も卒業し資格も取った上に、最終的には大学の講師や 論文を発表したりもしていた。そんなになっても相変わらず “人生の師匠と呼ばせていただきたいけど、正直ささべんみたいにはなりたないな” と突っ込ませてくれるアホキャラで通っていた。 でも、私達は皆、彼女のことをとっても尊敬していた・・・。 そんな彼女がガンに侵されていたと知ったのは、一昨年の中ごろ。 私の結婚の案内にも、普段メールがすぐに来る彼女からは返事もなく おかしいな~、でもきっと仕事で忙しいんやろうと思っていたら その半年前に肝臓を3分の2摘出をしたが、もう仕事に復帰したよ~ などという、ショッキングながら明るい文面だった。私はその前の年の ダンナの初来日で会って以来、結局今まで会えなかったのだが、 メールでの文面もいつもギャグ交じりで、しんどいはずやのに 全くそのそぶりは見せなかった。他のツレの話やと、 “先生、抗がん剤キツくなったから、今度会う時はヅラかも~ とか言うから、どうかえしていいか分からんねん”とも聞いた。 今年に入って肺に転移したことも知ったけれど、転職もし、キャリアアドバイザーとしても日本中を飛び回っていたので こんなに重い病気なのに、誰もが彼女は乗り越えられると信じていた。 だから、夏すぎから連絡がなくても、また前と同じで忙しいんちゃうか、 でも前もそうやったからな・・・と心配していて、電話もしたけれど 結局、どうする事もできず、2日は彼女なしで集まった。 その時も彼女の話も出たが、やっぱり私達は、皆どこかで信じていた。 彼女が乗り越えないはずはない・・・。 お母さんからのハガキによると、亡くなったのは10月8日。 もう3ヶ月以上も前やった。その頃、彼女が亡くなっている事も知らずに、 読まれるはずのないメールを送り、帰ってくるはずのないメールを送っていた。 ・・・とにかく、頭が真っ白になって、涙は出てこなかった。 ただ、ただ、呆然と楽しかった笑いあった日々が頭にめぐっただけだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.01.28 05:28:54
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