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テーマ:イタリアの美味しい話(706)
カテゴリ:美味しいもの大好き
ここ最近はやけに暖かいですが、
秋になると食べたくなるのが ミネストローネ 。 うちの夕食はパスタと肉・魚料理が日替わりで パスタの時にはサラダやチーズ、ハム類などを 一緒に食べるようにしていますが 秋になるとこれにミネストローネが入ります。 レシピはいたって簡単なものが多いですが 過去のミネストローネの記事 → 1 、 2 ちょっと手が混んだのはこの豆のミネストローネ。 簡単ですが、豆を煮るのに前日から仕込み、 煮る時間と裏ごしする手間がかかります。 それでも味は 超~絶品 過去ログにもあるけど、レシピは こちら レシピは パッパアルポモドーロ と同じく 私の料理の師匠・ジャンカルロ の本より。 同じく豆を使ったトスカーナ郷土料理の リボッリータ も同じく彼のレシピです。 ::::: 2001年の夏、ダンナと知り合ってまだ間もない頃、 “紹介したい人がいる” と言われて 連れて行かれたのがシエナ郊外のド田舎にある彼のトラットリア そこに待っていたのは、レシピ本のイラストと全く同じ風貌のジャンカルロと 更に巨大な奥さん・アドリアーナだった。 ここは、ダンナは今の仕事に就く前、まだ20代前半に住み込みでコックとして働いていた所。 ダンナの職場のオーナーでもあり、そしてまだここでは親元で暮らすのが当たり前の年頃だった (40までっていうのも結構アリなイタリアですけど・爆) ダンナの第二の家族 でもあった。 私はまだまだイタリア語がよく分ってなかったけど、とにかく料理が美味しかったのを覚えている。 彼らの事をよく知るようになったのは、その年の年末。 あんなド田舎なのに大繁盛の彼らのトラットリア、 “手伝いに来てくれないか” とお声がかかった。 まだイタリア語分らないから私は厨房で皿洗いやろ、と思ったがどっこい、担当はカメリエーラ! 幸い特別メニュー1コースのみだったけど、息子ジャコモの教えを必死に聞くも お客さんからはメニューの説明を聞かれたり、 “stuzzicadenti(爪楊枝) ちょうだい” など 当時知らない単語を言われて固まりながら必死で 駆けずり回ったのを覚えている。 確か合計5日間、トラットリア上の空き部屋に泊まり、朝から晩まで彼らと共に過ごした。 それからその年の復活祭でも呼ばれ、今度は開店前は野菜の皮むき、開店後は皿洗い。 更に地元のパスタのサグラに出すパスタソース5種×10キロを仕上げる日もお手伝い。 この日はひたすら玉ねぎの皮(多分5キロの袋を10袋ほど・・・)をむきまくった。 こうしている間に私と彼らの距離もどんどん近くなっていった。 私が一番びっくりしたのは、彼らは手も絶えず動いてるけど口も絶えず動いている。 それは仕事の話じゃなくて冗談だったり、ツッコミだったり、 内容がよく分らないことはケンカしてるんじゃないかとマジでビビッたほどの迫力でしゃべり倒す。 アドリアーナが息子のジャコモに “Sei figlio di puttana!” (お前は娼婦の息子か!・・・て、オカンはアンタでは!?)と罵倒してる横で、 ジャンカルロはのほほんと歌 を歌いながらつまみ食いをしていたり、 後になって、この家族は本当に仲が良い事、ダンナが忙しくても楽しかったというのがよく分った。 そして 彼らのツッコミの対象に次第に私もずぶずぶとはめられてゆき 、 イタリア語(トスカーナ方言)が分らない私は下ネタを違う意味で教えられて 皆の前で発して爆笑されてしまったり、変な歌を歌わされたり、 “ビオンダ(金髪)~!(当然真っ黒な私への皮肉)” と呼ばれたり・・・ 彼らの冗談好きは、私の友人で、彼らの元へ料理レッスンにやってきたT夫妻にも及んだ。 午前中に、その夜用に(時間を置いて食べた方が美味しいため) リボッリータだったかナスのパルミジャーノだったかをつくり、 その後に一緒に買い物に出かけた時、車を運転していたジャコモが急ブレーキをかけ路肩に止まる。 “バッボ、レンジ消した!?消してないんじゃないの!?” “ノーーー!お前消してないの?” と言い合う2人・・・ そして彼らの友人でもありレッスンをしていたアグリツーリズモのオーナーに電話 をかける。 “ああ、あれは黒こげだな・・・晩は軽くピッツァでもつまむか” 通訳していた私もT夫妻もすっかり信じ込んで残念・・・としょぼくれて 帰ってきたら、 ほっくほくの出来上がりが!! ・・・このシーンのための猿芝居にすっかり騙された私たち そして肝心のジャンカルロの料理は、すごくシンプルなんだけどすごく美味しい 一度彼に美味しさの秘訣を聞いた事がある。彼にしては珍しく、ちょっとまじめな顔で “料理は楽しく食べてもらう人の美味しい顔を想像して作ると、 どんな簡単な料理だって格別 になる” まさにその通りだった。厨房のジャンカルロはいつも楽しそう で、 本当に料理が好きだ とにじみ出ていた。その言葉を聞いてから、 私も何だか料理をするのが楽しみに、もっと美味しいものを作りたいと思うようになった。 それから彼らのトラットリアは、お客さんはいるのにカメリエーレが見つからない という理由で、結局閉店する事になった。 幸い、トラットリア時代から続けていた料理教室や結婚式のケータリングサービス、 そして彼の人柄と人脈で仕事に困ることはなかった。 ちなみに私たちの結婚式もジャンカルロにお願いした。最初はもちろん招待客のはずだったんだけど ケータリング業者を数箇所回ってもしっくりくる所が見つからないし、 きっと彼もその方が喜ぶだろうと・・・最高の料理、最高のデモンストレーションだった ::::: この豆のミネストローネを作った週の先々週の週末、私の携帯にシエナ県内番号からの着信。 出てみると、ジャコモの奥さん・ラウラからだった。声から何か悪いことだとすぐに分かった。 “恐ろしいことが起こったのよ、ジャンカルロがね、友人と食事に出かけてたんだけど、 気分が悪いなって言って倒れて・・・救急車呼んで人工呼吸してね・・・ 一度は甦生したんだけど・・・そのまま・・・” そのラウラの涙声を聞いていても、あまりに突然過ぎて、 そしていつもの猿芝居じゃないのかとまで思えて、うまく理解できない。 ダンナも、同じ。あんなに大事な人の突然の死なのに、涙さえ出てこない・・・ Vivoのサグラの時はジャンカルロの所に寄って2人目妊娠の報告をしようなって、 さっきのさっきまで言っていたばかりなのに・・・ シエナ県外で亡くなった為に、棺はそのまま封印され、お葬式は一切なし。 これも、彼の実姉が、そして最愛の妻・アドリアーナが亡くなった2年前も お葬式に姿を現さなかった彼のシナリオのような気がしてならない。 私たちの中では、厨房で鼻歌を歌いながら楽しそうに料理するジャンカルロ、 そして今では最後の姿となってしまった、昨年秋のジャコモの結婚式で ビシッとスーツで決めたダンディなジャンカルロの姿しか残っていない。 そして、彼のレシピ本。 本に従いながら、作ってた時にこんな風にしてたな、というアレンジを加えながら、 彼の思い出に浸りながら、ずっと彼の料理を作っていこうと思う。 ::::: 今日は私の血液検査が朝早くにあり (注射器5本分抜かれました) ダンナ有休だったので 昼ごはん後に週末を過ごすオルチャのノンナの家へ向かいました。 その前に、ジャンカルロの息子・ジャコモの働くガソリンスタンドのバールへ。 妹のエリーザにはマニーノより少し下の息子がいて、 彼らとよくフィレンツェの彼らのノンナ(ジャンカルロのお母さん)のところへ行くと言っていました。 この子供のおかげで笑顔になり、助かっているとか。 そして ジャコモの奥さん・ラウラが妊娠中 であると・・・ 13週目だから、ジャンカルロは新しい孫の誕生を知っていたはず。 2年半前はエリーザが妊娠中で、私も同じく妊娠中にアドリアーナが亡くなり、 今度はジャンカルロが亡くなり・・・これも何かの因果なのか。 そして、ジャンカルロの眠るお墓へ。 墓地から見える景色 ここはダンナが働いていた前半のお店の近くで、奥に見える町にはよく行ったそう。 車が運転できないジャンカルロを連れての買出しや、 コック服のままで息子のジャコモのサッカーの試合を見に行ったり。 ここでは、やはり彼の死という“現実”をつけつけられた感じがして、私は泣いてしまいましたが ダンナは感慨深く見つめた後に、お墓にキスをしただけでした。 うまい形容が見つからないけど、今年1月の実父の壮絶な死を経験して、 ダンナは何だか死に対して免疫というか、強くなったのかな、という気がしました。 そして、かつてのお店にも寄ってみました。 町に入る坂の下にあるゴミ箱を見ただけで “あ~、毎日ここにジョヴァンニとアペ(自動三輪)でゴミ捨てに来たなぁ” と笑うダンナ そしてお店の前に立つと、いろいろ回想をしてるのか、1人でニヤニヤしてました。 店のある広場にいたおじさんを見て、 “あ、このシニョーレ老けたなぁ” とか 畑仕事をしてたおじさんを見て、 “あの人は村の名物じいさんで・・・” と語る語る。 それからVivoへ向かう最中でも、ダンナの楽しい思い出・笑い話は尽きず・・・ ジャンカルロも、きっと天国で一緒に笑っているでしょう。 ↑ 思い出話にお付き合いありがとうございました・・・ぽちっと応援よろしく♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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