「環境を守る」というのは「情緒的」には理解できるけれど、具体的に一つ一つのことを考えると何を言っているのかよくわかりません。もっとわかりにくいのが「地球に優しく」というので、地球というのは人間と違いますし、誕生したときには大気はCO2が95%、温度2000℃という世界ですし、20億年は多細胞生物はまったくいない生命の活動が感じられない星だったのです。
だから、生物が生きていること自体が地球には迷惑かも知れず、もともと「迷惑」などということは地球にはないでしょう。それを勝手に「地球に優しい」などということは詭弁です。しかもそれを子どもに教えているのですから、親の世代はかなりおかしいような気がします。
・・・・・・・・・節約の多様性・・・
ところで、最近「節電」というのが「良いこと」とされていることについて、私はどうしても同意できません。かつて住宅は家族5人ほどで住むのにやっとの広さでした。居間は4畳半、寝室は一つで雑魚寝でした。それが最近では居間は10畳、家族がそれぞれの部屋を持つ時代です。
「節約」が良いことなら、日本の家屋を改造して居間は四畳半、寝室は一つにするのが良いでしょう。家に「風呂」がついている(内風呂)のは贅沢ですから、銭湯を使って同じお湯にみんながつかる方が省エネであることも間違いありません。
でも、なぜ10畳の部屋、個別の寝室、内風呂の方が「快適で良いこと」なのでしょうか? 一つは人間はより快適な人生を目指して生きていくものであり、第二に節約が大切と言ってもその時代と経済力にあったバランスのとれた生活が望ましいからです。
その点では「電気をどのぐらい使うか」というのは、第一に電気を使えば快適な生活が送ることができるので、第二に今の時代と経済力に合っているか、資源は大丈夫かなどから決まることで、「節電しなければならない」という道徳があるわけではありません。
人によっては「住宅は狭くても都会で電気をつけた明るい快適な生活」が良い人もいますし、「せせこましい都会で過ごすより、風の通るゆったりした地方の家」の方が好きな人もおられます。その人その人が自分で生活や人生を選択し、法律に違反せず、自分の価値観にそって生きるのが現代です。
多様な価値観を認める、それは別に反社会的でも何でもありません。まして、電気というのは人類が生み出した知の産物ですし、比較的クリーンで使いやすく、安全なものでもあります。「活動」には「エネルギー」が必要ですが、そのためにもおそらく現代では最適なものでしょう。
・・・・・・・・・他国との関係・・・
今の日本で「節電」が叫ばれ、アメリカでは「節電」という英語すらハッキリしない(先週、シカゴ大学の先生ご夫婦に確認しました)というのはどういうことでしょうか?
自分は大きな家に住みたい、自分はデラックスな車に乗りたい、でも電気を消すことぐらいはできるから、それで環境に配慮しているような顔が出来れば良いというのでは誠実ではないと思います。
また、どのぐらい節約するかというのは、やはりこれも「中庸」ですから、日本のように世界でもっともGDPに対してエネルギー消費が少なく、電気の消費量は国民一人あたりアメリカの2分の1という国ですから、これ以上の節電は極端すぎます。むしろ「増電」の方が正しいでしょう。
・・・・・・・・・
家、車、電気のうち、日本の将来のことを考えれば、活動を制限することになる電気の節約がもっとも日本を痛めることになるでしょう。
エネルギーは活動の源です。無駄に使うことは良くないことですが、電気の消費量を減らすのは日本の衰退につながります。子どもの議論ではなく、エネルギーと社会の関係を良く理解し、「贅沢」と「活動源」を区別して、「贅沢」の方から削減していくことが大切です。
それに「節電」は電力会社の経営の失敗、国の原子力安全の失敗、それに国が膨大な税金を原発にだしていたことの失政をカバーする行為であることも同時に知る必要があります。
「tdyno.124-(8:45).mp3」をダウンロード
(平成24年6月11日)
武田邦彦