このことから、牟田口は、自身が日中戦争(支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。のちのインパール作戦発案についてもこの想いが強く影響したという。
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牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
軍人官僚として
参謀本部に勤務する佐官時代の牟田口廉也
佐賀市(現)で出生[1]。三人兄弟の次男(兄は早世)[1]。小学校3年の時に[1]、士族・牟田口衛常(牟田口家は、廉也の実母の実家[1])の養嗣子となった[2]。
実父の福地信敬は、官吏を経て裁判所書記官[1]。実弟の福地英男は、海軍機関学校(24期[2]・首席[1])を卒業して海軍機関科将校となり、1945年(昭和20年)の広島市への原爆投下により戦死、海軍中将[1]。
(中略)
「皇道派」に属した牟田口はこの後頻発する反乱事件の関係者たちとの関係を持つこととなった。牟田口は五・一五事件の実行犯の一人であった古賀清志海軍中尉とは同じ佐賀中学卒業で交流もあり、1935年(昭和10年)に「皇道派」の将校が「統制派」のリーダーであった永田を斬殺した相沢事件においては、主犯の相沢三郎中佐の軍法会議に同期生代表として出廷し、同情的な意見陳述をしている[20]。またこの頃に、のちに深刻に対立することとなる佐藤幸徳との因縁も生まれている。佐藤は「統制派」に属していたが、「皇道派」の牟田口が自分を怪しんで身辺にスパイを配置し、自分の陸軍中央への栄転を阻んで、第6師団参謀に左遷し、その後も敵視し続けていたと思い込み、牟田口に対する不信感が醸成され、のちのインパール作戦での抗命事件へと繋がっていく。やがて、「皇道派」と「統制派」の対立は、1936年(昭和11年)の二・二六事件へと繋がっていき、反乱を主導した「皇道派」に対して粛清人事が行われた[21]。牟田口自身は計画には全く関与していなかったが、事件に関わっていた青年将校が牟田口を慕ってよく遊びに行っていたことで関与が疑われたことや[22]、「皇道派」に対する粛清人事の対象にもなり、 1936年(昭和11年)3月27日、北平駐屯歩兵隊長として外地に左遷された。これ以降、陸軍中央のエリート軍人官僚であった牟田口は、これまで実戦経験がなかったのにも関わらず、野戦の指揮官として勇名を轟かす「野戦の勇将」という新たな軍人人生を歩んでいくこととなる[23]。
(中略)
北京に戻った河辺は牟田口に攻撃中止を命じ、
現地部隊間での停戦交渉が行われたが、
中国軍の撤退が進まない状況を見た
牟田口は、
事件不拡大の河辺の方針に反し、
指揮下連隊に
「中国軍の協定違反を認めるや、直ちに一撃を加える」
と戦闘準備を命じ、
敵情視察の名目で
1個小隊を竜王廟に派遣した。
この動きは却って中国軍を刺激することとなり、
7月10日に両軍は衝突し[37]、
牟田口は躊躇せず中国軍の殲滅を命じた[38]。
戦闘開始を知った
河辺は慌てて連隊司令部を訪れたが、
不機嫌そうな顔をして一言も発さずに口を結んで牟田口を睨みつけるだけであった。
牟田口はそれを「無言の叱責」と認識し、
早く銃声が収まればよいがと思ったが、
両軍の銃声は収まるどころか激しくなる一方であった。
そんな状況でも河辺は一言も発することなく、
また何の指示もしないまま立ち去って行った[39]。
既に牟田口が攻撃命令を行っていたので、
それを上級指揮官である河辺が翻しては
軍の統率の混乱を招くものとして、
再び牟田口の命令違反を追認せざるを得なくなり[40]、
牟田口は河辺が帰った後、
竜王廟付近の中国軍に夜襲をかけさせて
これを殲滅している[41]。
このことから、
牟田口は、
自身が日中戦争(支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。
のちのインパール作戦発案についてもこの想いが強く影響したという。
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最終更新日
2022.11.30 18:00:06
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