宮古島島民遭難事件によると、日本政府は、日本人を殺害したこの事件に対し清朝に厳重に抗議したが、台湾の原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、
台湾出兵を行った。
台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に日本が行った清国領台湾への軍隊派遣である。
概要
1871年(明治4年)10月、
台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件(宮古島島民遭難事件)が発生した。
この事件に対して、
清政府が
「台湾人は化外の民で
清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」
としたことが責任回避であるとして、
日本側が犯罪捜査などを名目に出兵した。
原因が54人殺害という大規模な殺戮事件であることを理由に、
警察ではなく軍を派遣した。
明治維新後の日本としては初の海外派兵である。
征台の役(せいたいのえき)、
台湾事件(たいわんじけん)とも呼ばれる。
また、
宮古島島民の遭難から
台湾出兵に至るまでの一連の出来事を
牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)と呼ぶこともある[1]。
原因・背景
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、
帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。
乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。
船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。
漂着した乗員66名(3名は溺死)は
先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、
逆に集落へ拉致された。
先住民とは意思疎通ができず、
12月17日に遭難者たちは集落から逃走。
先住民は逃げた者を敵とみなし、
次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。
12名の生存者は、
漢人移民により救助され台湾府の保護により、
福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。
明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、
清国政府は管轄外として拒否した。
翌1872年(明治5年)
琉球を管轄していた
鹿児島県参事大山綱良は
日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。
1873年(明治6年)には
備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、
乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[2]。
これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
(中略)
帰結
日本と清国との間で
帰属がはっきりしなかった琉球だったが、
この事件の処理を通じて日本に有利に働き、
明治政府は翌1875年(明治8年)、
琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と
明治年号の使用などを命令した。
しかし琉球は清との関係存続を嘆願。
清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)、
明治政府の琉球処分に際しても、
それに反対する清との
1880年(明治13年)の北京での交渉において、
日本は沖縄本島を日本領とし
八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、
清は元来二島の領有は望まず、
冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、
また、分島に対する琉球人の反対もあって、調印に至らなかった。
明治政府は
兵員輸送に英米の船会社を想定していたが拒否され、
大型船を急遽購入した。
また国有会社の
日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、
大隈重信は
やむなく新興の民間企業である
郵便汽船三菱会社(三菱商会系)を起用することに決定した[10]。
1874年7月28日、三菱商会は、政府輸入船13隻による運航業務を受託し、
軍事輸送を委託された[11]。
この協力により、以降、三菱は政府からの恩恵を享受できることとなり、
シェアを一気に拡大し
一大財閥になるきっかけとなった[12]。
なお日本国郵便蒸汽船会社は
これを機にシェアを奪われて解散、
所有船舶は政府から三菱へ無償で貸し下げられた。
宮古島島民遭難事件
宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、
日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年、同治10年)、
琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、
宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、
台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説もあり)、
台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。
現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。
日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、
「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、
「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。
台湾では遭難船が到着した場所に因み、
「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、
あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する[2]。
日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、
原住民は
「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、
これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。
乙未戦争
乙未戦争(いつびせんそう)とは、下関条約によって日本への台湾割譲が決まり、上陸した日本軍に対して清国の残兵や一部の台湾住民[1]が抵抗し戦闘となったものである。
当時の公文書や1895年11月の台湾総督樺山資紀による台湾平定宣言に基づき、台湾平定の他、台湾平定作戦、あるいは台湾征討と呼称される[2]。
日清戦争の残敵掃討戦であるため、日本政府はこの戦闘を日清戦争の一部として取り扱っている[3]。
名称は戦闘の起こった1895年の干支が「乙未」であったことに由来する。