破壊と創造を繰り返す古都・ウィーン。
この日のTBS『世界遺産』は、オーストリア(Oesterreich)の首都・ウィーンについてでした。 13世紀から1918年までハプスブルク家の帝国の首都として君臨し続けてきたウィーン。その中心にあるのが、世界遺産に指定されているウィーン歴史地区です。その周辺にはシュテファン大聖堂、ウィーン大学、ウィーン国立歌劇場といったクラシックな建物が並ぶ街並みは、中欧をイメージさせるのに十分な景観です。 ハプスブルク王朝の時代、オーストリアは現在の領土に加え、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ルーマニア、セルビアなど東欧の広大な地域を支配する帝国でした。帝都・ウィーンは、領土内の様々な人々が行き交いました。街中ではドイツ語(本来の公用語)の他に、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、イタリア語などが飛び交い、国際色豊かでした。地理的にも欧州の中心に近い。正に「文化の交差点」だったと言っていいでしょう。 また、多文化・多言語であることが、食文化にも影響を及ぼしたこともありました。ウィーンのカフェでは、格式のある有名な店舗となると、ドイツ語、英語、フランス語など外国語の新聞を常備し、利用客が他人とのコミュニケーションを楽しむよう工夫されているとのことでした。 数百年間ずっと首都だった。ほぼ全国から人が集まる。日本でいう京都と同じような古都だったのでは、と勝手に想像してしまいました。 そのウィーンは、前述の「歴史地区」が最初から存在したわけではありませんでした。19世紀後半、皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世による都市大改造計画が発端でした。彼はウィーンを帝国の首都としてふさわしいものになるよう改造したのです。「歴史地区」としての歴史は意外と浅いのですね。 エンディングのところで、ウィーン市が計画している再開発(高層ビル建設)に対して異論が出ていることについて、専門家からこのような意見が出ました。 「町は博物館ではないのです」 これまでの歴史との調和は確かに大切だけど、「伝統」に悪い意味で固執していたら前には進めない。それは日本の京都と同じではないのでしょうか。再開発に異論続出となれば、おそらく今頃、京都駅の特徴的な駅ビルは無かったでしょう。 今年5月15日には、オーストリア航空が成田空港に再就航を果たします。古都・ウィーンへのロマンが湧いてきた1日でした。