既にご存知の方もおいででしょうが、
私は、末次治代と末次市郎の第1子です。
私には弟が1人いて、現在は、愛知県安城市の山崎製パンで
シュークリームを永年製造しております
弟は、20年も山崎製パンで仕事をしています。
私と弟以外にも、兄弟姉妹がいた可能性もありましたが
母親が流産を、たしか2回ほどしているんので、
二人兄弟です。
さて、母は旧姓が、「秋元治代」
父のほうは、「入江市郎」です
*秋元家は元々、大工の家系で、青森出身です。
*入江家は、元々、飛脚で、在幸袋の家です。
「末次家」は、秋元家とは親類関係にあります。
末次家は、以前にも書きましたが、商魂たくましい家系で、
代々商売をしており、戦前は満州で、豆屋さん、喫茶店、そして、
銭湯まで経営していました。
戦後、オートレース場の入り口となる現在地(私の実家の所在地)で
食堂をしておりました。オートレース客を当てにした商売です。
うどんやちゃんぽん他を出していた大衆食堂だった様です。
そして、その後、タバコを扱い出し、食堂からタバコ店に変化し、
雑貨やお菓子パンジュール類も扱う様になりまして、
現在に至ります。
末次家には、末次ヤエばあちゃんと 末次忠蔵じいちゃんの夫妻が
いましたが、あいにく子宝に恵まれず、
親類の秋元家から、お嬢さんを1名養女で貰い受けました。
それが、私の母、治代です。
その後、母・ハルヨが、お見合いで結婚し、
入江家の次男坊、市郎さんが、末次姓に入りました。
新婚旅行は長崎で、その時に、私が授かりました。
=================================
父市郎は、野球少年で、とても上手く、嘉穂東高校時代では
野球部で活躍し、甲子園大会まであと少しというところまで進み、
また、ノンプロや西鉄(プロ球団)にスカウトされるほどの
野球の名選手でした。
九州の野球関係者には知られた存在で、
プロで活躍した元広島の古葉監督や迎木監督とも旧知の野球仲間です。
公務員として、就職し、建設省の九州地方建設局に入り、
仕事の一方、野球に打ち込む毎日でした。
(なお、父が25歳、母が24歳の時の子供が私です。)
===================================
ですから、私自身は、再興末次家の初代と思っております。
さて、その父市郎と私の話は今後、継続して記しますが、
父が体調を崩し、恐らく今年で逝去すると思います。
人間は、どんなに踏ん張っても、どうせ死ぬのですから、
人間の死は、避けられず、仕方がないですね。
父と私は、深い確執があります
私は父が嫌いです。
しかし、父に感謝している事も確かにあります。
父とは、色々な問題が発生し、嫌いです。
正直な所、末次家の事を考えますと、
早く亡くなれば良いと思う部分もあります。
(勿論、こんな事をいえば、批判がくるでしょうが、
色々な複雑な事情もあり、私はその様に思っています)
一方で、父から鍛えられた野球を通じて
体得したモノもあり、これについてはとても感謝しています。
そうした事について、今後、書いて参ります。
正直な胸を内を。
【<兵法・英語二刀一流>末次通訳事務所 末次賢治】
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年01月28日 21時35分50秒