○皆様、お世話になります。末次通訳事務所がお届けします通信講座です:
明日は、出張ですので、添削は、金曜日にします。
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★弊所のブログサイト「Kenの英語簡単講座」をぜひご覧になって下さいませ。
http://plaza.rakuten.co.jp/niten/
最近、更新を頻繁しており、英語のコツや学習姿勢などに関して、私見を投じてお
ります。
★【末次流(/二刀流)英語】(戦略ある英語)講義集のご案内★
【内 容】:この度、新たに一昨日掲示板サイトを作成・立ち上げました。
以下のURLをコピー&ペイストなさって、クリックして頂きますと、内容をご覧頂け
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「ダブル」 や 「トリプル」 は、日本語として定着しています。
特に野球ではよく使います・・・「ダブルスチール」とか「ダブルプレー」「トリプ
ルプレー」など。
英語では、それぞれ、double / triple ですが、
これは大変に幅広く使える、便利な動詞になります。
1)「先月から、生産を2倍に増やしました」⇒この様な場合に、doubleを使いまし
て
We've doubled our production since last month. ですね
2)このホールの収容人数を倍にする工事をしております
We have been renovating this hall to double its capacity. ですね
double は、動詞で、対象物を2倍にする、という意味合いです。
尚、改築するは、reform でなくて、renovate ですね
reform は、政治の改革、宗教の改革 という事です
家とはかんけいないですね。ですから、リフォームは、
家の改築と云う意味合いでは、英語では通じません
triple でしたら、3倍にする、 という事ですね。
3)「この機械の回転速度を3倍にするのは安全面から無理な話です」
It is impossible in safety-wise for us to triple this machine's speed. です
ね
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doubleの逆・・・つまり、数量を半分にする、50%にする、というのは、
halve と言います。halfの動詞の形です。
We have to halve the workers to survive this severe economy.
「社員を半数にしなくちゃ、やっていけません」、という意味合いですね
上記の、double / triple / halve はぜひ、これを機会に覚えて頂きまして
日々の業務や英語練習に役立てて下さいませ:
尚、弊所では、次の2つの新規サービスを皆様にご案内します。
特に、企業研修の講演、セミナー、学校での職業紹介や講演など
承りますので、ご遠慮なくご連絡くださいます様にお願い申し上げます:
*<講演・企業研修・セミナーなど承ります>
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<兵法・英語二刀一流>
末次通訳事務所 英語通訳 末次 賢治 拝
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余話:宮本武蔵先生の年表です。
史実として、明確に証明されているものをのみ纏めました。
天正十二年 (1584)
播磨国印南郡米堕村に生まれる。幼名は弁助(または弁之助)。父は田原家貞。
天正年間中に作州の剣士宮本無二之助藤原一真の養子となる。
慶長元年(1596)
十三歳。播州にて新当流有馬喜兵衛を倒す。
慶長四年(1599)
十六歳。但馬の国で秋山某という、強力の兵法者を打ち殺す。
慶長五年(1600)
十七歳。父、無二之助と共に黒田勢に加わり豊後地方で戦う。
(*父・無二助は、円明流十手術の師範で新免家家臣であり、
黒田家や細川家にコーチをしておりました)
慶長九年(1604)
二十一歳。京で吉岡と戦って勝利する。
慶長十年 (1605)
円明流・兵法書『兵道鏡』を執筆。
慶長十七年 (1612)
二十九歳。舟島で岩流の佐々木小次郎と試合して勝つ。
試合後、小次郎の弟子に追われて門司城代、沼田延元に匿われ、後、豊後杵築の父
の元へ護送される。
慶長十九年(1614)・元和元年(1615)
三十一歳~三十二歳。大阪冬の陣、大阪夏の陣に参戦。東軍水野勝成に属すか。
元和四年(1618)
三十五歳。本多家客分。小笠原藩の明石城町割り(城下町づくり=区画整理開発事
業)に協力する。
この頃、養子の酒造之助(主家の新免宗貫の子供)を本多家に出仕(就職)させ
る。
寛永三年(1626)
本田忠刻の死に際して、酒造之助が殉死。
養子伊織を小笠原家に出仕させる。
武蔵四十三歳。円明流を称する。
寛永九年(1632)
武蔵四十九歳。小笠原家が小倉へ、細川家が熊本へ、それぞれ移封。
伊織は小倉藩筆頭家老になる(二千五百石)。
武蔵も伊織と共に小倉へ。
後、正月、藩主忠真の命で宝蔵院流槍術の達人高田又兵衛と勝負。
寛永十五年(1638)
五十五歳。島原の乱に中津藩主小笠原長次の旗本として出陣。石に当たり負傷。
寛永十七年(1640)
五十七歳。八月、細川家の客分として熊本へ行く。(千葉城を屋敷として与えられ
る)
七人扶持、合力米拾八石。
翌年『兵法三十五箇条』を執筆。二月完成し、忠利に献上。
寛永二十年(1643)
六十歳。熊本郊外の霊巌堂で『五輪書』の執筆に入る。
正保二年(1645)
六十二歳。『独行道』『五輪書』完成させ、五月十九日没。
(熊本にて)
遺言⇒「天を仰げば実相円満、兵法逝去にして絶えず」
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【<兵法・英語二刀一流>末次通訳事務所 末次賢治】
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最終更新日
2010年07月07日 21時01分12秒