小倉と門司の間に、手向山という「山」がありますね。この一帯は、小倉宮本家の領地です
小倉宮本家の初代当主は、「宮本伊織貞次」さんですこの方は、宮本武蔵の実兄の二男であり、
武蔵師の養子(第2番目の養子)です・さて、二天記には、伊織は東北の泥鰌取りの少年と
されていますが、これは虚構であり、実際には、上述の通り、伊織さんは、武蔵師の兄貴の
子供さんですね。
さて、小倉碑文には、武蔵師の功績が漢文で書かれています。1100文字の漢文ですが、
その現代語訳を小職が作成しましたので、
ここに貼り付けます。皆さまもお読みくださいね
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小倉碑文(於:手向山)の現代語訳
冒頭の句
【 兵法天下無雙 】➡天下に、武蔵の武勇にならび立つ者はいない
【 天仰 實相 圓満 兵法 逝去 不絶 】
➡天を仰げば実相円満、兵法、逝去にして絶へず
碑文>
1.承応三年(1654)4月19日、孝子(伊織)が敬って此処に建立した。正保二年(1645)5月19日、
肥後国熊本で逝去。播磨国(兵庫県南西部)の赤松氏の流れ、新免武蔵玄信二天居士の碑。
2.「臨機応変」は、秀れた将のとるべき道である。戦略戦術を探り、
訓練に励むのは、出陣に備えてである。
文武両道の達人として名誉に輝いたのは誰であろう。
それは、播磨国(兵庫県南西部)の名門、赤松氏の流れを汲む、
新免氏の子孫・宮本武蔵であり、その諱*(いみな)は玄信、号は「二天」であり・
※ 諱は死後の尊称、号は本名のほかに用(もち)いる呼び名、雅名。
3.武蔵は生まれつき、天性がひろくのびやかで、小さな事にこだわらない性格であり、
二刀流の元祖となった。
4. 父は新免無二で、「十手術」で知られていた。武蔵はその術の伝授を受けて、
日夜研鑽し、研究して、十手が刀にくらべて利点があきらかに非常に大きいことを知った。
※十手とは槍の先に十字状に鋭器をつけて攻撃と防御を兼ねた戦闘武具であろう。
5.だが、そうは言っても、十手はいつも身につけて使っているものではない。
それに比べて、二刀はいつも腰にさしている。十手を二刀にかえれば、その利点は変わらない。
だから宮本家は十手をやめて、二刀の家にすることにした。まことに見事な剣法の選択であった。
6. 二刀流は、時には真剣を飛ばしたり、木剣を投げて命中させるから、敵は逃れることができない。
それは剛弓で、百発百中するのと同じで、
中国の弓の名人として伝えられている楚国の養由もこれを超える事はできない。
7. 振りかえれば、武芸を身につけ世間に武名を知らしめたのは、十三歳の時であった。
播磨の国で、初めて、新当流の有馬喜兵衛なる者に勝負を挑んで、たちまちの間に勝った。
8. 十六歳の春には、但馬国(兵庫県北部)で、たいへんな力持ちで武芸に優れた秋山なる者と
勝負をした。
手のひらを返すぐらいの一瞬の間に打ち殺したので、世間に武蔵の武名が広がった。
9. 後に京都へ行き、日本一の兵術者と言われていた吉岡憲法に、雌雄を决しようと申し込んだ。
吉岡家の跡継ぎである清十郎と、京都洛外の蓮台野で、いずれ劣らぬ勝負を争ったが、
武蔵の木刀の一撃で清十郎は倒れて
息が絶えた。あらかじめ、勝負は一撃で終わる約束をしていたので、止刀(とどめ)はささなかった。
10. 門下生等が、彼を板に乗せて立ち去り、
薬や湯治で命を取りとめた。それから彼は剣を棄て、頭を剃り仏門に入って世を過ごした。
11. その後、弟の吉岡傳七郎と、また洛外で雌雄を決した。傳七郎は五尺(約1.5m)ぐらいの木刀をひっ提げてきた。武蔵は隙を見て、彼の木刀を奪って一撃した。傳七郎は倒れてたちどころに死んだ。
12. 武蔵を冤(うら)んでいる吉岡一門は、尋常の試合では、とても勝てないから、
謀り事で討ち取ろうと策謀した。そこで吉岡又七郎(清十郎の嗣子・十七歳)をたてて、
果し合いの話しに事よせて、京都の外れ下松の辺り(洛外一乗寺村)で武蔵に会い、
門下生数百人が武器や弓矢で、一気に武蔵を倒そうとしたのだ。
13. だが、平生、先が読める武蔵は陰謀を察し、加勢しようとする門下生たちにひそかに言った:
「お前たちは手出しはするな。早く退散しろ。喩え、敵が群(む)れとなり、
隊となって向かってきても、私には浮き雲のようなものだ。
どうしてこれを恐れることがあろうか。敵は烏合の衆にすぎないのだ」と。
14. まるで猟犬が猛獣を追いまわすような威力を見せて、
相手を打ち破ったので、京都の人々がみんな感嘆した。
強さと知謀を奮って、一人で万人に当たれるのは、これぞ真の武芸者である。
15. 吉岡家は、代々足利将軍の武術師範で、日本第一の兵術者の称号を認められていた。
だが、十五代将軍足利義昭公が新免無二を召し出して、
吉岡と三回勝負をさせた時、吉岡は一度勝ち、
新免無二は二度勝って、無二に「天下に並びなき武芸者」の称号を賜(たまわ)った。
父(無二)と吉岡とのそういう先例があったからこそ、武蔵が京都に出て、
吉岡と数度勝負を決したのだ。
こうして、遂に吉岡兵法の家は断絶したのである。
16. 岩流という武術の達人がいた。武蔵は彼に雌雄を決しようと申し込んだ。
岩流が真剣で勝負を決めようと言う。
武蔵は「貴殿は真剣で、私は木剣で、秘術を尽くして戦おう」と固く約束した。
場所は、長門と豊前の境の
関門海峡の船島に決めて、2人が約束の時刻に立ち合った。
17. 岩流は刃渡り三尺(約90センチ)の真剣で死力を尽くした。
武蔵は木刀の、電光一閃の一撃で岩流を
斃(たおした。これから、船島を「岩流島」というようになった。
18. およそ十三歳より壮年まで、六十回余り勝負をしたが、一度も負けた事はなかった。
そして、敵の眉と眉の間を打って勝つのでなければ、勝ったことにならないと自分に決めて、
その的を外した事はなかった。
19. 昔から果たし合いをした人は数え切れないが、国中の名のある英雄豪傑にすすんで立ち向かって、
敵を打ち殺したのは武蔵一人である。武芸者としての武蔵の名声は、国内に普く知れわたった。
古老もその誉れを絶えず口にして、
今の人たちが感銘しているのだ。まことに目を見張らされるではないか。
20. 武蔵が武芸に優れ、若くして武勇の誉れを上げた事は、他の武芸者を大きく引き離している。
武蔵が常に言っていたが、武芸は技量がいかに優(すぐ)れていても、
ただひとつ「私心」をなくす事が大切である。
そうすれば、戦場で大軍をあずかり、また国を治めることも決して難しいことではないであろう。
21. 太閤秀吉公のお気に入りの臣・石田治部少輔(三成)が
謀反(むほん)した関ケ原合戦や、
秀頼公が乱を起こした大坂の陣に参加した武蔵の功名はいくら語っても語り尽くせるものではない。
22. これらの武芸に加えて、武蔵は、礼(生活の規範)、楽(音曲)、射(弓術)、
御(馬術)や、書、数、文の、すべてに通じないものは無かった。
ましてや小芸功業(絵画や彫刻、金工、茶、造園など、身近な工芸)は
何事でもできないことはなかった。真に優れた大人物であった。
23. 武蔵は細川藩に身を寄せて、肥後の熊本で亡くなったが、
臨終にあたり「天仰実相圓満之兵法逝去不絶」(天を仰げば実相円満、兵法逝去にして絶えず)」と
書いて、これを遺言とした。だから、孝子伊織がこの碑を建てて、
父・武蔵の偉業を永久に伝え、後の世の人に見てもらうのだ。
ああ、武蔵は大きな人物であった。