本日は、5月19日。
もし、まだ暦が旧暦でしたら、
本日は宮本武蔵師の御命日ですね
新暦では、1645年の6月13日となります
旧暦では、本日日付の同年5月19日ですね
宮本武蔵師に付いて、
だいぶん史実が判明してきました。
wikipediaでも、史実の記載が増えて参りました
師の中年から晩年はおよそ次の通りです
・大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、
水野勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが
数々の資料から裏付けられている。
・その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。
明石では町割(都市計画)を行い、
姫路・明石等の城や寺院の
作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。
・元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の
三男・三木之助を養子とし、
姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
・寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、
円明流を指導する。
その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に
弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。
以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
・寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、
宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 14]。
・島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い
伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。
乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。
また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
・寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。
・7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に
隣接する千葉城に屋敷が与えられ、「鷹狩り」が
許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。
・同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に
従い、山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。
・翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚により
これまでと同じように毎年300石の合力米が支給され
賓客として処遇された。
『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、
藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。
この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
・寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。
また、亡くなる数日前には「自誓書」とも
称される『独行道』とともに
『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
・正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城の屋敷で亡くなる。
享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の
武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。
・福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、
養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである
『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、
『五輪書』では、二刀一流、
または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には
二天一流となったものと思われる。
後世では武蔵流等の名称も用いられている。
熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、
熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。
また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に
「二天一流」を伝えている。
写真は上から 熊本の武蔵塚、小倉碑文、圓明流二刀刀法概念図
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