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カテゴリ:戦争
このアニメ「火垂るの墓」は、毎年のように敗戦記念日の前後に見ている。
そして今年も、そのお約束に違わずに見たのである。 中には、悲しすぎて見ることができないという人もいるほどの悲しい物語である。 では、ウィキペディアからあらすじを紹介しよう。 1945年9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。 太平洋戦争末期、兵庫県御影町[1](現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の空襲で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。 やがて血の繋がりのない節子と清太を、叔母は邪険に扱うようになる。二人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池[2]のほとりにある防空壕[3]の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていく。清太は、畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしながら生き延びる。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。 節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが既に手遅れで、幼い妹は終戦の7日後に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として逝去した。 清太は、たびたび重巡洋艦摩耶の艦長である父に宛てて手紙を送っている。 しかし、その返事は決して帰って来ることはなかった。 というのも、摩耶は1944年10月23日に米潜水艦からの魚雷4発を受けわずか8分間で沈没し、艦長以下336名が戦死しているからである。 本来なら、戦死した海軍上級将校の家族として、それなりの処遇を受けてしかるべきこの兄妹が、池のそばに放置された防空壕で二人だけで生活せざるを得なかったということは、死んでしまって利用価値がなくなった者に対しては、国家が極めて冷淡であると作家野坂は訴えたかったのだと思う。 火垂るの墓では、節子のそして清太の非業の死が、二人だけの悲劇として描かれている。 しかし、これは、当時、日本の各地で毎日のように大量に生じていた日本国民全ての悲劇なのである。 そして私は、こう思う。 それが、いかなる名目によるものであろうと、なによりも国際平和をキキョウ(希求)する我ら日本国民は一切の戦争を拒否すべきであると。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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