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カテゴリ:戦争
高度1万メートルの蒼空をひたすら飛翔する機中から見た富士山は、関東平野の中に屹立する素晴らしき山である。 先の大戦中は、本土空襲に飛来したB29のランドマークとなったのも肯ける話だ。 そういえば、1945年1月27日、サイパン島を出撃した第73爆撃航空団の6回目となった中島飛行機武蔵製作所への空襲は、出撃74機中9機を失う失敗に終わったが、この時にも、やはりランドマークたる富士山を目がけて17機の編隊が襲来した。 ランドマークの富士山で旋回中に、日本陸軍の三式戦闘機飛燕に迎撃され、その編隊の中の1機ウィアーウルフは静岡上空で空中分解し、機首部が富士宮市源道寺、動体部と翼が同市阿幸地、尾部が富士宮陸軍墓地にそれぞれ落下した。 その時、墜落する機中から飛び出した四つのパラシュートの行方を、手に手に、鎌や棍棒等の武器を持ち追った市民の中に、当時国民学校3年だった日本を代表する時代劇俳優 里見浩太朗もいたという事もエピソードとして語り継がれている。 その時の様子を里見浩太朗はこう語っている。 「昭和20年1月私が小学校3年生の時でした。B29による東京大空襲があり空襲警報の鳴り響く空をB29の編隊が腸がひっくり返りそうな爆音を響かせながら西の山から富士山の向こうまで続いてしまうほど飛んで来たのです。私は母と兄と3人で防空壕の中に潜んでいました。やがて数時間過ぎてB29の編隊は富士山から西の山に向かって悠々と帰っていくのです。その時、かん高い急降下の音とともに1機のB29が黒煙を噴出しながら下がってきたと思ったとたん、大音響と共に空中分解をして機体は3つに分かれ真っ赤に燃えながら落ちてきたのです。私は、恐怖心と物珍しさから思わず防空壕を飛び出してしまいました。燃えて落ちるB29と共に何人かの米兵が落下傘で脱出したのが見えました。その時母が大きな声で”あぶない”と叫びながら掛け布団を私の頭からすっぽりかぶせ、私はその重みで地面にたたきつけられました。実はそのB29の3つに分かれた尾翼の部分が現富士宮2中の校庭のすぐ横に落ちたのです。(そのときはまだ2中ではありません)そこには、軍人墓地があり、まるでその墓地にひれ伏すような形で墜落していたのです。当時私の家は、浅間神社の西門のすぐ近くでしたので、走って見に行ったのです。焼けただれた機体からまだ時折機関銃の弾が爆発して四方に飛び散っていました。私は、身体中をガタガタと震わせながらその光景を見つめていました」 戦争と言うものは子供にも強烈な印象を残すものであると痛感した。 勿論、生きていればの話だが。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年10月15日 22時29分24秒
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