解説 第12回「氏真」大河ドラマどうする家康 戦国大名今川氏真がなぜ滅亡したのか?武田信玄と徳川家康に密約あったのか?
#どうする家康 #今川氏真 #武田信玄 永禄の変で13代将軍足利義輝、死去。室町幕府の次期将軍争い。足利義栄(義親)か足利義昭(義秋)か。甲斐で義信事件(信長派と今川派の対立)。義信事件。飯富虎昌、切腹。高野山成慶院「甲斐国供養帳」。武田勝頼と信長の養女・龍勝院殿の婚儀。武田信玄と織田信長が甲尾同盟、締結。織田信長が一色龍興に大敗、義昭の上洛供奉に失敗。足利義栄(義親)が従五位下左馬頭に任官。信長、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。今川氏真、甲斐、塩留。信玄の嫡男・武田義信、東光寺で病死。信玄の姪で氏真の妹で武田義信の正室(れいしょういん)が駿河へ帰国。信玄が帰国に反対も、北条氏政・氏直父子が中人として、相互に起請文。甲相駿三国同盟、維持。14代将軍足利義栄となるが入洛できず。信長、再度、義昭の上洛供奉、成功。足利義栄、死去。義昭、朝廷から将軍宣下。室町幕府の第15代将軍に就任。従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官。武田信玄、穴山信君通じて、家康に今川領国、侵攻の申し入れ。第一次薩埵峠(さったとうげ)の戦いに武田軍、勝利。今川氏真、駿府の今川館捨て、懸川城に逃亡。第12回「氏真」あらすじ武田信玄(阿部寛)から攻め込まれ、家臣にも見限られた今川氏真(溝端淳平)は、駿河・今川館を捨てる。妻・糸(志田未来(しだ みらい))は、彼女の実家である北条に身を寄せるよう勧めるも、氏真は耳を貸さない。一行が徳川領に近い掛川城に落ち延びたため、徳川家康(松本潤)は兄弟同然に育った氏真と直接戦うことになり…。[略年表]永禄8年10月15日、義信事件。動揺した甲斐の武田氏。義信の正室・嶺松院が氏真の妹。永禄8年12月末までに 、武田信玄、美濃出身の快川紹喜(かいせんじょうき)の仲介で、美濃の一色龍興と同盟。甲濃同盟(こうじょうどうめい)。永禄9年2月17日、覚慶は矢島御所で還俗し、義秋と名乗った。義秋の名は、僧侶の勘進によるもの永禄9年4月21日、義秋は吉田神社の神主・吉田兼右の斡旋により、朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官。この叙任は本来、武家伝奏を経て朝廷に申請するのが正式な手続きだが、足利義栄が摂津の普門寺まで進出している政治事情を配慮。吉田兼右の斡旋で「御隠密」に行われた。永禄9年5月、牛久保城の牧野成定、従属。「三州錯乱」は家康の勝利。東三河、領国化。永禄9年7月、織田信長、美濃一色家と和睦。尾濃無事(びじょうぶじ)。永禄9年閏8月8日 、河野島の戦い(こうのしまのたたかい/かわのしまのたたかい)。織田信長が一色龍興に大敗。足利義昭に供奉し上洛する信長の計画、失敗。永禄9年9月8日、足利義秋(のちの足利義昭)は若狭から越前国敦賀へと移動。永禄9年12月28日、足利義親(のちの足利義栄)、従五位下・左馬頭に叙す。永禄9年12月29日、藤原徳川氏に改姓。従五位下に叙爵。三河守に任官。徳川家康となる。『歴名土代(れきめいどだい)』。朝廷(正親町天皇)に三河の戦国大名と認知された。将軍不在で藤原姓の近衛前久を通しての申請。泰翁慶岳と近衛前久が懇意。松平家が近衛家の家来だったという由緒も重視。永禄10年1月5日、消息宣下(しょうそくせんげ)を受け、正式に従五位下・左馬頭に叙任。義親から義栄に改名。足利義栄となる。永禄10年5月27日、織田信長の息女・五徳が徳川家康の嫡男・竹千代に嫁ぐ。永禄10年8月15日、織田信長、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。永禄10年8月17日、今川氏真、甲斐の塩留。永禄10年10月19日、信玄の嫡男・武田義信、東光寺で死去。永禄10年11月19日、信玄の姪で氏真の妹で武田義信の正室・嶺松院は駿河へ帰国。信玄が帰国に反対も、北条氏政・氏直父子が中人として、相互に起請文。三国同盟維持。永禄10年12月21日、上杉輝虎宛、今川氏真書状。駿越交渉。第二次川中島の戦いの中人(ちゅうにん)・今川義元以来の誼。輝虎が使僧要明寺、派遣していた。永禄11年2月8日、足利義栄、征夷大将軍宣下。禁色賜り、昇殿を許される。永禄11年4月15日、足利義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、一乗谷の朝倉氏の館において元服式を行い、名を義昭と改名。なお、山科言継も招かれる予定だったが、費用の問題から晴良だけになった。加冠役は朝倉義景が務めた。兄・足利義輝が六角定頼を管領代にとして加冠役にした前例に倣って、朝倉義景を管領代に任じて行われた。永禄11年5月11日、徳川家康、岡部正綱宛書状。正綱、誘う。駿河にも手出ししていた。永禄11年9月、織田信長、足利義昭が、上洛。室町幕府14代将軍、足利義栄、死去。永禄11年10月、武田信玄、長沼に在陣。長沼城の落成、甲斐に撤兵。第七次川中島の戦い。永禄11年10月18日、足利義昭、朝廷から将軍宣下。室町幕府の第15代将軍に就任。従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官。永禄11年11月3日、甲駿国境封鎖。本栖の人に諸役免許。氏真による敵対行為。永禄11年11月6日、武田信玄、穴山信君通じて、徳川家康に今川領国侵攻の申し入れ。永禄11年11月25日、今川氏真、上杉輝虎との和睦交渉、失敗。永禄11年12月6日、武田信玄、駿河侵攻、開始。永禄11年12月12日、第一次薩埵峠(さったとうげ)の戦い。今川家臣朝比奈、瀬名、庵原、葛山ら、瀬名谷に軍勢退却させ、氏真、見限る。中人としてのメンツ潰された北条氏康、信玄の駿河侵攻に激怒。武田との同盟破棄。娘婿・氏真救援と武田攻め、決断。小田原城、出陣。永禄11年12月13日 家康、遠江侵攻。二俣城の二俣左衛門尉、逃亡。 永禄11年12月15日 今川氏真、懸川城に到着。永禄11年12月17日 家康、引間に到着。『科註拾塵抄』 永禄11年12月18日 引間城、引渡し。『編年』他。 永禄11年12月19日 家康、久野宗能に命じ、天竜川に舟橋、かけさせた。 永禄11年12月21日 馬伏塚(まむしづか)城主小笠原氏興、高天神城主小笠原氏助父子が、家康に帰属。氏真、大沢基胤、中安種豊に書状。堀江城の死守、要請。永禄11年12月22日 家康、懸川城に接近。攻撃の準備。 永禄11年12月24日? 徳川家康が引馬城(曳馬城)を攻め。お田鶴の方、討ち死に? 永禄11年12月26日 家康、二俣城将鵜殿氏長と二俣先方衆23人に起請文と知行宛行状、発給。 永禄11年12月27日 家康、不入斗(いりやまぜ)に布陣。懸川城攻め、本格化。『編年』他。 永禄11年12月28日 懸川城に北条氏政からの援軍、海路で到着。永禄12年1月 北条氏政、上杉輝虎と和睦。同盟交渉、開始。越相一和。永禄12年1月2日 家康、武田重臣秋山虎繁の遠江進軍に抗議。 永禄12年1月5日 本圀寺の変。永禄12年1月9日 信玄、信長に書状。遠江侵攻も視野に入れてる旨、報告。永禄12年1月17日 家康、天王山砦に到着。 永禄12年1月20日 氏真、天王山攻撃に戦功あった家臣安藤九右衛門に感状。永禄12年1月21日 懸川天王小路(こうじ)の合戦。 永禄12年1月26日 北条氏政、薩埵峠(さったとうげ)に到着。永禄12年1月28日 天王社路で激戦。 永禄12年2月4日 信長、家康からの援軍要請に返書。 永禄12年2月13日 武田重臣山県昌景の酒井忠次宛書状。家康から信玄に安倍一揆衆の無断で人質替した件で抗議あり。永禄12年2月16日 家康、信玄と、再び、起請文。甲三同盟、継続。 永禄12年2月18日 家康、上杉輝虎と交渉。三越交渉。河田豊前守長親宛の家康の書状。 永禄12年3月8日 懸川城の今川氏真と徳川家康の和睦交渉、開始。 上杉輝虎、本庄繁長、赦免。永禄12年3月13日 輝虎重臣河田長親(かわだ ながちか)から酒井忠次、石川家成宛で、謝意。永禄12年3月23日 信玄、和睦に反対。信長の考え聞く書状、在京の家臣市川十郎右衛門尉に送る。永禄12年3月27日 掘川城、落城。掘川一揆、壊滅。 永禄12年4月8日 家康、犬居城主天野藤秀(あまの ふじひで)に起請文。知行安堵。 永禄12年4月11日 氏真、朝比奈泰能(あさひな やすよし)、大沢基胤らに書状で感謝、家康に降伏、開城の許可。永禄12年4月12日 家康、大沢基胤に起請文と判物(はんもつ)、給付。本領安堵。引き続き堀江城、在城、許可。ただし、新居(あらい)のみ取り上げ、直接管理。代替地として呉松(くれまつ)。 永禄12年4月24日 信玄、甲斐に到着。永禄12年4月28日 信玄、駿河在陣諦め、退却開始。永禄12年5月6日 氏真、懸川城、開城、決定。『編年』他。永禄12年5月11日 北条綱成(ほうじょう つなしげ)、氏真家臣三浦左京亮元政に書状。駿河の北条方に警戒指示。永禄12年5月13日 信玄書状。織田家臣津田国千世、武井夕庵(たけい せきあん )宛。先約通りに、遠江衆の人質、家康に引渡した。永禄12年5月15日 今川氏真、懸川城、出る。 永禄12年5月18日 北条氏政、北条幻庵に書状。氏真夫妻、昨日、蒲原(かんばら)に到着。永禄12年5月23日 氏真、北条氏政の息子・国王丸、養子とし、今川の名跡、与えると宣言。戦国大名・今川氏、事実上、滅亡。永禄12年5月24日 家康と氏政が氏真の駿河帰国実現に向けて、同盟締結。 武田信玄と徳川家康の間に甲三同盟があり、今川領国(駿河、遠江)が実質的に切り取り次第だった。甲相駿三国同盟、堅持したい相模の北条氏。今川氏真を正室・早川殿の実家・北条氏が救ける、という構図でした。永禄の変で不在となった将軍。14代将軍めぐる争い。三好三人衆と足利義栄が勝ちましたが、織田信長と足利義昭が上洛。足利義栄が病死。15代将軍、足利義昭、誕生。以下、第13回に続きます。