第20回 岡崎クーデター どうする家康 解説 大岡弥四郎事件!山田八蔵!織田信長の娘で嫁の五徳(乃木坂46 久保史緒里)と姑・瀬名!松平信康と徳川家康!武田勝頼と望月千代女!大河ドラマ
#どうする家康 #松平信康 #武田勝頼 『信長公記』、『甲陽軍鑑』、『三河物語』などなど。読めば、なるほど、と。時系列が、つかみにくかったりもするが。。。このまま、織田信長に、こき使われ続けるのか、潔く武田勝頼の軍門に下るのか。どうする?第20回「岡崎クーデター」あらすじ武田信玄(阿部寛)亡き後も武田軍の強さは変わらず、武田勝頼(眞栄田郷敦)は徳川領に攻めこんだ。総大将の松平信康(細田佳央太)は石川数正(松重豊)らと応戦するが、苦戦を強いられ、瀬名(有村架純)や亀(當真あみ)も、負傷兵の手当てに走り回る。病で浜松から動けない徳川家康(松本潤)は、本多忠勝(山田裕貴)らを援軍として送る。そんな慌ただしい状況の裏で、岡崎城ではある陰謀が仕組まれていた・・・。[年表]天正元年9月21日 武田勝頼、奥平定能の子ら人質3名を処刑。天正元年10月25日 信長、第二次長島侵攻。北伊勢から撤収。林新次郎通政、討ち死に。天正元年10月26日 信長、岐阜に帰還。天正元年11月4日 信長、上洛。宿所、二条の妙覚寺。天正元年11月13日 武田勝頼、菅沼新兵衛尉の家督相続を承認。天正元年11月16日 若江城の戦い。三好義継、妻や子供と共に自害。享年25。首は信長のもとへ届けられた。天正元年12月2日 信長、岐阜に帰還。天正2年正月1日 岐阜で酒宴。珍奇な肴あり。朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首、薄濃にしたもの、膳に置いた。天正2年1月5日 33歳 家康、正五位下に叙位された。 天正2年正月27日 信長、東美濃の岩村城に入り、明知城、攻め。天正2年2月1日 信長、先陣として、尾張・美濃の兵を援軍として派遣。天正2年2月5日 信長、自らも嫡子・信忠と出陣。天正2年2月8日 家康の次男・於義丸(おぎまる)、のちの結城秀康、誕生。 天正2年2月24日 信長に「すでに明知城が落城」との報あり。付近の城を普請させたり、城番を置き、岐阜に帰陣。天正2年4月6日 犬居城の戦い。一ノ瀬の戦い。家康軍、敗退。大久保忠世の弟・大久保忠核(おおくぼ ただざね)が討死。享年24。 天正2年5月12日 武田勝頼、小笠原氏助の高天神城を包囲。 天正2年6月5日 信長のもとに武田勝頼が小笠原氏助の高天神城包囲の一報あり。天正2年6月14日 信長・信忠父子、岐阜を出発。天正2年6月17日 信長、酒井忠次の三河国の吉田城に入城。天正2年6月17日 高天神城、開城。高天神城を明け渡した小笠原氏助は、武田方となり、名も「信興」と改めた。信興は、高天神城を引き続き、守備。 天正2年6月19日 家康、浜松から吉田に出向き、信長に来援の礼。間に合わなかった信長、家康に黄金、贈呈。信長公記。天正2年6月21日 信長父子、岐阜に帰還。天正2年7月13日 信長父子、長島に出馬。津島に布陣。天正3年2月15日 家康、鷹狩で、井伊虎松、見出す。新井白石『藩翰譜』、直虎が云々『井伊家伝記』、浜松城下で鷹狩云々『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』。 天正3年3月3日 信長、京の相国寺(しょうこくじ)に入る。天正3年3月16日 今川氏真、織田信長に挨拶。茶道具、献上。蹴鞠すると聞く。天正3年3月20日 相国寺で、今川氏真、織田信長の御前で蹴鞠。天正3年4月12日 恵林寺で、信玄三回忌の法事。甲陽軍鑑。天正3年4月頃 岡崎町奉行・大岡弥四郎事件。