第22回 設楽原の戦い どうする家康 解説 馬防柵 鉄砲 武田騎馬隊?猿武者 信長公記と甲陽軍鑑 織田信長と徳川家康の連合軍に武田勝頼が!大河ドラマ
#どうする家康 #設楽原の戦い #長篠の戦い 『信長公記』と『甲陽軍鑑』に興味深い記述がありました。『歴史探偵』でもあった、玉薬、硝石の調達、云々。馬防柵、土塁の構築。野戦築城、陣城。第22回あらすじ徳川・織田連合軍は長篠城の西・設楽原で武田軍と対峙。だが織田信長(岡田准一)は馬防柵を作るばかりで動こうとしない。しびれを切らした徳川家康(松本潤)は、わずかな手勢で武田の背後から夜襲をかける危険な賭けに出る。策は功を奏し、武田勝頼(眞栄田郷敦)は攻めかかってくるが、織田信長はその瞬間を待っていた。3,000丁の鉄砲が火を噴く![年表]天正3年5月17日 信長、野田原に野営。5月18日 信長が設楽の極楽寺山に、信忠が御堂山(みどうやま)に布陣。弾正山の陰となり敵から見えない窪地に3万の軍勢、配置。先陣として、その地の徳川家康が、古呂水(ころみつ)坂の上、高松山に布陣。滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀が東向きに布陣。5月19日 家康と滝川一益とともに連吾川前にあてて馬防柵の敷設、開始。家康、重臣・石川数正に場所など考慮し、入念に作れと命じた。2日間で、三重の馬防柵、構築。5月20日 武田軍、軍議。重臣、撤退か、長篠城、攻略か、進言。勝頼、決戦、決意。長篠城包囲に室賀信俊、小山田昌成ら2000人余、鳶ヶ巣山砦以下、2000人余、残した。夜、勝頼、1万1000人で、滝沢川(たきざわがわ)越えて、有海原(あるみはら)に進出。5月20日 戌の刻(午後8時頃)、酒井忠次の長篠城救援部隊が、地元の菅沼氏らの先導のもと、乗本川(のりもとがわ)越えて、南の山地、菅沼山、越えた。 5月21日 辰の刻(午前8時頃)、酒井忠次の長篠城救援部隊が鳶ヶ巣山砦、攻撃。深溝松平伊忠(まつだいら これただ)が、信玄の異母弟・河窪信実(武田信実)、討ち取るも、討ち死に。享年39。長篠城攻撃隊、鳳来寺(ほうらいじ)目指して退却。信長、家康の高松山に登って、全軍に厳命。山県昌景、武田信廉、小幡の一党、武田信豊、馬場信春の順で、撃退。明け方から未の刻(午後2時頃)まで、鉄砲隊が入れ替わり戦った。今川氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際、設楽原での戦闘に参加。内藤昌秀(内藤昌豊)を討ち取り、家康の直臣になった。長篠の戦い。 5月25日 信長、三河の支配を家康に任せ、岐阜に帰還。家康、三河・遠江、二国の支配、承認され、長年の念願、達成した。信長公記。5月下旬 家康、余勢をかって、駿府に侵攻。城下に放火。 5月末から数日間 今川氏真も旧領駿河進入。各地に放火した。