第37回 さらば三河家臣団 どうする家康 解説 小田原征伐の小田原城 北条氏政と北条氏照兄弟の切腹 北条氏直が高野山に追放 淀殿と鶴松 豊臣秀吉が唐入りと言い出す!大河ドラマ
#どうする家康 #さらば三河家臣団 #徳川家康 蝉の羽化、一段落したので。小田原城の残り見ながら、解説。第37回「さらば三河家臣団」茶々(北川景子)が豊臣秀吉(ムロツヨシ)との子、鶴松を産んだ。勢いづく秀吉は、北条攻めを決定。和平を主張する徳川家康(松本潤)に秀吉は先陣を命じ、勝てば北条領を全て与えると言う。しかし、それは故郷・三河を離れることでもあった。家康は家臣たちに事情を話せないまま、出陣を命じる。秀吉が20万もの大軍で小田原城を包囲する中、家康は北条氏政(駿河太郎)に降伏を促すが、全く応じようとしない。氏政には関東の雄としての意地があった。[年表] 天正17年 5月27日 豊臣秀吉の嫡男・鶴松、淀城で誕生。 6月5日 妙音院一鴎軒宛北条氏直書状。北条氏直、妙音院と一鴎軒に、父・北条氏政が天正17年12月上旬に上洛する旨を伝え、秀吉への執り成しを求めた。岡本文書。 6月5日 摺上原の戦い。伊達政宗が蘆名義広に勝利。金上盛備(かながみ もりはる)、伊達政宗軍の片倉景綱隊に突撃し、戦死。享年63。 7月21日 秀吉家臣の富田一白と津田盛月、徳川家康家臣の榊原康政が検使として立ち合いの下、沼田城が北条氏に引き渡された。家忠日記。真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた。 7月24日 北条氏政は沼田領を北条氏邦に管轄させた。北条氏邦は宿老で沼田城代の経験もある猪俣邦憲に管轄させた。 9月 沼田城代・猪俣邦憲は沼田領の支配を開始。 10月22日、もしくは、23日 真田家の管轄とされていた名胡桃城内で内紛。 11月3日 北条氏家臣で沼田城代・猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城代・鈴木重則の家臣・中山九郎兵衛を寝返らせた。偽の書状で鈴木重則を上田城に呼び寄せた隙に、名胡桃城を占領。鈴木重則は道中の岩櫃城で計略に気付き、急いで城に戻ろうとしたが間に合わず、恥じて正覚寺(しょうがくじ)で切腹。 11月10日 真田信幸宛徳川家康書状。家康は沼田裁定の検使・津田盛月と富田一白の二人にまず知らせるように指示。両人から秀吉に報告されるだろう。榊原康政にも伝えるようにと書き送った。 11月21日 真田安房守宛朱印状。秀吉は真田昌幸に今後、北条氏が出仕したとしても、名胡桃城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない、来春、天正18年春に出兵すると伝えた。 11月22日 北条からの使者・石巻康敬(いしまき やすたか)が名胡桃事件の弁明のために上洛。弁明に失敗。 11月24日 北条左京大夫(さきょうのだいぶ)宛条々。秀吉は北条氏直宛で宣戦布告。諸大名にも配布した。 11月24日 駿河大納言宛書状写。秀吉から徳川家康へ書状。来春の出陣決定と陣触れしたことを伝え、軍議のため、家康の上洛を要請。 11月29日 京から富田一白、津田盛月、御使(おつかい)として下向。沼田城、請取したのに上洛しない北条氏政が、今月中に出仕しなければ、御成敗あるべし、とのこと。北条からの使者・石巻康敬、上洛の帰路、抑留。妙音院も磔になるだろう。家忠日記。 11月29日 酒井宛美濃守氏規書状。北条氏規、妙音院と一鴎軒の情報を酒井と共有しようとした。 12月3日 家康は上洛のため、吉田から岡崎に越し候。 12月4日 北条氏直、妙音院と対面し、直接交渉。石巻康敬の抑留の事情、尋ねた。 12月5日 殿様、御上洛候。深溝帰り候。 12月5日 津田盛月・富田一白、駿河国沼津の三枚橋城に到着。 12月7日 冨田左近将監(さこんのしょうげん)・津田隼人正(はやとのかみ)宛北条氏直条書写。北条氏直は、12月6日付の書状に返書。截流斎(せつりゅうさい)こと北条氏政の上洛の件。夏に妙音院と一鴎軒(いちおうけん)が下向してきた際、上洛すると決めていました。来春1月、京に着く予定です。抑留や国替えの惑説があるため上洛できません。徳川家康が臣従した際、秀吉の妹・朝日姫が嫁ぎ、生母・大政所が人質となってから上洛するという厚遇を受けました。一方、祝いで上洛させた使者・石巻康敬が、帰路、抑留されています。名胡桃城事件は、氏政・氏直父子の命令があったわけではありません。名胡桃城主・中山九郎兵衛が越後衆が途中まで出張って、信濃国川中島と知行替えだと言ってきています。義父・徳川家康にも相談しました。数日で報告します。名胡桃の件、富田一白、津田盛月も、細かく検分しました。以前、渡された吾妻領の件。真田が追い払ったので、百姓がいません。 12月9日 徳川家康宛北条氏直書状写。北条氏直、名胡桃城乗っ取り疑惑の件と氏政の上洛遅延の件、義父・徳川家康に取り成し、依頼。 12月10日 家康、秀吉と聚楽第で小田原攻めの軍議。対北条戦の準備を開始。 12月13日 酒井家次から京よりお触れ。小田原征伐。関白秀吉が3月1日、織田信雄が2月5日、家康が1月28日に出陣と決定。 12月16日 殿様、京都より西尾に下向。 12月17日 氏直は北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。 12月17日 殿様、岡崎に到着。 12月18日 殿様、吉田に到着。 12月25日 上杉景勝が上洛。 天正18年 1月3日 駿府の若君・長丸(後の徳川秀忠)が上洛の旅に出た。 1月7日 長丸が岡崎に到着。今度の御上洛は、関白秀吉が織田信雄の娘を養女にして、若君・長丸と祝言あげるため、とのこと。 1月8日 長丸、岡崎に逗留。 1月9日 長丸、お見送り。 1月14日 家康の正室・朝日、死去。享年48。 1月15日 秀吉に拝謁した長丸は元服。秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗った(『徳川実紀』)。秀吉から、豊臣姓を与えられた。 1月21日 秀忠、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言。 1月25日 秀忠、秀吉の許しを得て帰国。他大名の妻子とは別格の待遇。 2月1日 松平家忠、雨で、出陣延期。 2月2日 松平家忠、新居(あらい)まで出陣。 2月10日 家康、賀嶋(かしま)まで出陣。 2月21日 内府様、駿府まで到着。 2月25日 織田信雄、沼津まで、出陣。 2月28日 浅野長吉(長政)、京都、出陣。晴豊公記。 3月1日 関白秀吉は後陽成天皇から北条氏の討伐を名目として節刀を賜り、聚楽第から大軍を率いて東国に下向。 3月3日 三好中納言殿、沼津まで参陣。 3月8日 明後日十日に韮山表に御取出(砦)これ有るべき由、御触れ候。 3月10日 戸沢盛安(とざわ もりやす)、秀吉に謁見。羽柴秀次隊の先鋒・中村一氏の幕下に入った。 3月10日 関白秀吉、吉田に到着。 3月20日 関白秀吉、駿府に到着。家康もお出ましになった。 3月20日 松井田城、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする北国勢が総攻撃。落城せず。 3月23日 夜より雨降る。関白様、清見寺まで御成り候。(松平家忠)御前へ出で候。天神山にて材木引き候。 3月26日 関白様、吉原(よしわら)まで御成り候。 3月27日 関白様、沼津まで御成り候。見物に越し候。 3月27日 家臣18騎を連れて津軽為信が、駿河国三枚橋城へ参向。小田原へ東下(とうか)する秀吉に謁見。 3月28日 間宮康俊は孫・間宮直元を山中城から出し、小田原城に送った。 3月28日 山中筋、物見に、関白様御越しにて、長久保城へ御成り候。 3月29日 黒田孝高(くろだ よしたか)の妹婿・一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)、伊豆国山中城攻めで、中村一氏とともに先鋒を務めた。間宮康俊軍の鉄砲で討ち死に。山中城、落城。北条氏光、足柄城、依田大膳亮に任せ、小田原城に入城。 4月1日 本隊が去った足柄城で依田大膳亮は井伊直政隊に形ばかりの抵抗しただけで脱出。足柄城、落城。 4月1日 徳川勢の本多重次・向井正綱らが安良里城(あらりじょう)と田子城(たごじょう)を落とした。 4月3日 三日 甲戌 小田原まで押し込み候。 4月5日 秀吉は箱根湯本の北条氏の菩提寺・早雲寺を占拠。当初、早雲寺を本営とした。 4月7日 伊達小次郎、急死。 4月8日 雨降り。夜、小田原城に籠城していた皆川広照が投降。 4月9日 夜、雨降る。城近く取り寄せ候。 4月14日 真田安房守他宛判物。秀吉、真田昌幸・信幸父子の松井田城攻め、激励。 4月15日 伊達政宗、会津黒川を出立。北条領国、通過できないので、一旦、黒川に戻った。 4月15日 同普請候。関白様、殿様(家康)、御陣所御見舞候。 4月20日 前田利家、大道寺政繁の上野国松井田城、降伏、開城。 4月21日 安国寺恵瓊、横川(よこかわ)深居庵(じんこあん)に制札を出し、羽柴勢の狼籍を停止。(「大梅寺文書(たいばいじもんじょ)」) 4月21日 山中城主だった玉縄城の北条氏勝(うじかつ)が剃髪し、降伏。開城。(「榊原康政書状」/『松平義行所蔵文書』)。 4月21日 前田利家、上野国松井田城、出発。伊達家文書。 4月21日 真木島玄蕃頭宛朱印状写。秀吉、玉縄城の北条氏勝の降伏を許可。真木島昭光に、前将軍足利義昭に豊臣方優勢との言伝(ことづて)を依頼。 4月22日 前田利家、小田原で秀吉に面会。 4月23日 下田城主・清水康英(しみず やすひで)に、脇坂安治(わきざか やすはる)と安国寺恵瓊が降伏勧告。起請文を交わし、降伏。開城。加賀高橋文書。 4月23日 星屋修理(ほしやしゅり)宛本多佐渡守正信書状。伊豆の土豪・星屋修理に百姓らが田畑の仕付に励むよう指導するように命じた。 4月26日 石倉城で松平康国(依田康国)が戦死。 4月26日 浅野長吉、家康家臣の本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉らとともに、関東筋の攻略、秀吉から命じられた。家忠日記。 4月27日 浅野長吉、江戸城、請取、完了、秀吉に報告。 4月28日 浅野弾正少弼宛朱印状。秀吉、浅野長吉に、前田利家の北国勢が川越に向かうので、合流するように命じた。浅野家文書。 4月29日 真田安房守宛朱印状。秀吉、真田昌幸に、箕輪城の請取方法を指示。人身売買を禁止。 4月29日 浅野長吉、足立郡浦和郷などに禁制の取次。浦和宿本陣文書、武州文書。 5月1日 浅野長吉、下総庄内16郷の禁制の取次状、発給。 5月3日 河越城、降伏、開城。 5月4日 宇佐美郷百姓宛伊奈熊蔵書状。伊奈忠次は伊豆国宇佐美郷の百姓に田地の開発、離散した百姓の還住、徳川・豊臣両家への奉公を命じた。 5月5日 浅野長吉、小金城、請取。 5月9日 伊達政宗、100騎の家臣連れて、会津を出立。 5月10日 浅野長吉、東金城、土気(とけ)城、請取。 5月12日 浅野弾正少弼他宛朱印状写、秀吉、浅野長吉、東金城、土気(とけ)城、請取、了解。急ぎ、浅野長吉に、鉢形城に向かうよう指示した。難波創業録。 5月20日 浅野弾正少弼他宛朱印状、秀吉、鉢形城に向かっていない浅野長吉、厳しく叱責。浅野家文書。 5月20日 浅野長吉、岩槻城の二の丸、三の丸、落とした。 5月22日 夜、雨降る。本田中書、平岩七之助、鳥居彦右衛門、武州岩付城攻め候て、三川衆少し損じ候。 5月22日 浅野弾正少弼他宛朱印状写、浅野長吉、岩槻城の二の丸、三の丸、落とした旨、秀吉に報告したところ、秀吉、一人も残らず討ち取るように厳命。 5月22日 岩槻城(岩付城)、落城。浅野長吉、秀吉に無断で、助命。 5月24日 浅野長吉(長政)宛伊達政宗書状。杉浦家文書。伊達政宗、甲府で1、2日、滞在して、武州口に出陣の浅野長吉の小田原着、待つと伝えた。 5月24日 雨降り。ゆふき(結城晴朝)出仕申し、小口番に越し候。 5月25日 浅野弾正少弼他宛朱印状、浅野長吉の無断での助命、沙汰限。次、また助命すれば、曲事とする、と糾弾。早々に鉢形城に向かうよう厳命。浅野家文書。 5月27日 佐竹義宣、宇都宮国綱が小田原城(相模国)包囲中の豊臣秀吉のもとに参陣。佐竹義宣、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義種が秀吉に謁見。出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項 5月27日 堀秀政が小田原城早川口の海蔵寺の陣中で疫病で急死。享年38。 5月27日 山中山しろどの(山中長俊)よりあん内あり。江戸とするが(駿河)と御とりかへの由。天正日記(偽書)。 5月28日 浅野長吉(長政)宛伊達政宗書状。杉浦家文書。伊達政宗、5月27日に甲州府中(甲府)に着いた旨、報告。 5月29日 舘林城、落城。 6月1日 浅野長吉、鴻巣郷に還住令、発した。大嶋文書。 6月3日 長連龍等宛前田利家書状。前田利家、家臣・長連龍 (ちょう つらたつ)に松山で浅野長吉に合流し、鉢形城、攻めるように指示。寸綿雑編。 6月5日 伊達政宗、小田原に到着。箱根・底倉の温泉場で謹慎。 6月5日 夜、雨降る。敵陣より和田、三浦、家中を上下で五十人持ち、口火掛け候て、二番の番に退き候。 6月6日 戸沢盛安(とざわ もりやす)、病死。享年25。 6月6日 織田信雄家臣・岡田利世(としよ、りせい)が小田原城に入り、北条氏直と単独で面談。 6月7日 忍城の城代・成田泰季が急死。奥方(太田資正の娘)は甲斐姫と相談。一門と家臣を集め、成田長親(なりた ながちか)に総大将を命じた。 6月7日 前日に続き、織田信雄家臣・岡田利世が小田原城へ入り、北条氏直と単独で面談。内容を徳川家康に報告した。 6月7日 北条美濃守宛徳川家康書状。韮山城に籠城中の北条氏規に降伏勧告。 6月7日 夕刻、前田利家、小田原まで来ていた。 6月7日 譴責使・浅野長吉、前田利家らが伊達政宗に遅参の詰問に来た。 6月8日 早朝、前田利家、忍城に向かった。 6月8日 小幡兵衛尉(信定)宛岡田利世(としよ、りせい)書状。小田原城に籠城中の小幡信定に織田信雄家臣・岡田利世から投降を促す書状が送られた。 6月9日 伊達政宗、小田原で秀吉に謁見。 6月12日 氏政の母・瑞渓院と、氏政の継室・鳳翔院が死去。「大宅高橋家過去帳」、鳳翔院の記載から共に自害。 6月12日 石田治部少輔(じぶのしょう)宛朱印状。秀吉、石田三成に忍城の水攻め、命じた。 6月14日 鉢形城は守将・北条氏邦が出家、降伏。開城。 6月16日 北条氏重臣・松田憲秀の長子・笠原政晴が、数人の同士とともに豊臣方に内通していたことを、笠原政晴の弟・松田直秀が氏直に報告し、発覚。笠原政晴は氏直により成敗された。 6月16日 十六日丙戌 下総より薮伝越し候。城中に松田調儀候えども、弟、返り忠にて誓い候。松田成敗にあい候由候。 6月20日 廿日 庚寅 国替り近日候由候。城中の調儀候由候。夜すがら、具足にて待ち候。 6月20日 石田治部少輔宛朱印状。 6月22日 夜、雨の中、徳川家康軍の井伊直政が小田原城篠曲輪(ささくるハ)を夜襲。占拠した。 6月22日 廿二日壬辰 夜、雨降る。井侍従、敵丸乗り崩し候。 6月23日 一番首を挙げた近藤季用(こんどう すえもち)と長野業実(ながの なりざね)は、秀吉の本陣へ召し出され、秀吉に対面して褒美を下された。 6月23日 早朝、八王子城、落城。 6月24日 韮山城主・北条氏規は黒田孝高(くろだ よしたか)の説得応じ、降伏開城。家康の家臣・内藤信成が韮山城を受け取った。 6月26日 秀吉、石垣山城に入城。石垣山城が完成すると、早雲寺を含む一帯は焼き払われた。諸陣 6月28日 江戸の事、今日きまるなり。天正日記。(偽書) 6月29日 羽柴越後宰相中将宛朱印状。秀吉、上杉景勝に、八王子城で捕らえた女子60人余の解放を命じた。ただし、小田原城に籠城中の者の妻子、除く。 7月1日 浅野長政、忍城皿尾口を突破。城兵の首30余り討ち取った 7月2日 北条氏房勢の広沢重信が、蒲生氏郷勢に夜襲をかけた。 7月3日 浅野弾正少弼(しょうひつ)宛朱印状、浅野長吉、忍城皿尾口の活躍、秀吉に称賛された。浅野家文書。 7月5日 雨降り。内大臣・織田信雄の重臣・滝川雄利の陣中に北条氏直が走り入り、関白・秀吉に降伏する旨、伝えた。 7月5日 五日 甲辰 雨降り。小口番ニ越候、氏直内府様内衆羽柴下総陣所ニ走入被成候而、関白様へ御佗言候。 7月6日 秀吉の小姓衆2名(片桐且元と脇坂安治)と、家康の重臣・榊原康政が、小田原城の受け取りに参上。小田原城、開城。 7月6日 六日 乙巳 城中へ関白様小性衆弐人、この方にては、榊原式部大輔、城請け取りに越され候。 7月6日 秀吉は木村重茲(きむら しげこれ)、上杉景勝、山崎片家(やまざき かたいえ)に、小田原城の落城後も抵抗を続ける忍城に攻めに参陣し、水攻めの堤をより頑強に修築するように命じた 7月7日 城中、関東衆皆々御出で候。 7月8日 地下人出で候。 7月8日 壬生義雄(みぶ よしたけ)、病死。 7月9日 地下人出で候。 7月10日 十日 己酉 殿様(家康)、城へ御移り候。城中見物に越し候。 7月10日 殿様(家康)、城へ御移り候。城中見物に越し候。 7月11日 北条氏政と北条氏照の兄弟は、小田原城下の医師・田村安栖(たむらあんせい)の屋敷で、弟・北条氏規の介錯で切腹。氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった。金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん)・石川貞清、秀吉の小姓頭・蒔田広定(まいた ひろさだ)、鷹匠頭の佐々行政と堀田一継、家康の家臣・榊原康政の検使。 7月11日 十一日庚戌 氏政、同弟奥州に腹を御切らせ候。 7月12日 北条氏直、高野山に追放、決定。家忠、荷馬(にうま)の担当に決定。 7月12日 十二日辛亥 氏直は高野へ遣わされ候わん由候。荷馬当たり候。本田作左衛門所へ越し候。 7月12日 檜原城(ひのはらじょう)、落城。平山氏重ら平山一族は城下で自刃。 7月13日 関白秀吉、小田原城内に御成り。 7月13日 十三日壬子 関白様、城中へ御成り候。 7月13日 秀吉は正式に家康の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国を収公。新たに、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の6か国と、近江・伊勢・駿河などで11万石を与えた。 7月13日 織田信雄、改易。 7月16日 秀吉、小田原城を出発。会津表に向かった。家康、同じく、江戸表に向かった。 7月16日 北条氏政と北条氏照の首は、京に送られ、聚楽第の橋で梟首。 7月16日 忍城、開城。 7月17日 十七日丙辰 片平まで越し候。 7月18日 徳川家康が江戸城に入った。 7月18日 十八日丁巳 江戸へ着き候。 7月19日 秀吉、江戸城に到着。 7月19日 大道寺政繁、居城・河越城下の常楽寺(河越館)で切腹。享年58。 7月20日 廿日 己未 雨降り。明日三州へ帰り候え候由、御立ち候。御国替り、女子引っ越しの事なり。関白様は、奥へ御通り成され候。 7月20日 雨降り。秀吉、江戸城から奥州に出発。松平家忠、お国替えの支度のため、三河に帰国、命じられた。 7月20日 本多正信宛榊原康政書状。榊原康政が、駿河の富士浅間神社の春長坊の訴訟を本多正信に委託した。 7月21日 松平家忠、三河に帰るため、出発。北条氏直、高野山に向かって、出発。 7月22日 廿二日辛酉 小田原陣場まで越し候。城見物候。氏直、高野候、昨日御上り候由候。 7月22日 松平家忠、小田原の陣場で、城、見物。 7月23日 鳥居元忠宛徳川家康書状。家康は鳥居元忠に常陸の下妻城(しもつまじょう)へ移るよう命じた。 7月25日 秀吉、下総国結城城に入城。養子・羽柴秀康(徳川家康の次男)を結城氏の養嗣子にすること。結城氏に小山(おやま)氏・壬生(みぶ)氏などの旧領が与えられること。正式に決定。 7月26日 秀吉、源頼朝に倣って宇都宮大明神に奉幣(ほうへい)。宇都宮城へ入城。 7月26日 本多忠勝、秀吉から佐藤忠信の兜を与えられた。 7月27日 南部大膳大夫宛覚豊臣秀吉朱印状。三戸南部氏の当主・南部信直が南部氏宗家としての地位を公認された。 7月28日 出羽国仙北(せんぼく)戸沢九郎(戸沢光盛)宛朱印状。戸沢光盛(とざわ みつもり)、領地を安堵された。 7月29日 家康、宇都宮城で秀吉に謁見。家康が織田信雄のとりなし、頼んだ。 8月1日 佐竹常陸介宛知行宛行状写。佐竹義宣、秀吉から安堵された領地、与力、家来にあてがった。 8月1日 家康、関東移封。八月朔日、八朔。江戸打ち入り。江戸城に再び入った。 8月4日 秀吉、宇都宮から会津に出発。 8月4日 井伊直政書状写。井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労った。上意で上野国箕輪に移った旨、知らせた。 8月5日 松平家忠、深溝に到着。妻子、引越で騒動あり。 8月7日 (井伊直政宛)秀吉朱印状。秀吉は宇都宮で井伊直政のために懇々と徳川家康を説得したと朱印状、送った。井伊家所蔵文書。 8月7日 滝川彦次郎宛本多中務大輔書状。本多忠勝は滝川忠征(たきがわ ただゆき)の肝煎で、秀吉から上総の万喜城(まんぎじょう)を与えられた。過分の知行まで拝領。兵糎米を4000俵頂戴した。感謝の意を表した。 8月8日 松平家忠、江戸から、川越城、仰せつけられるとの一報、受け取った。 8月9日 秀吉、会津黒川に到着。 8月13日 秀吉、会津黒川、出発。 8月20日 松平家忠が興国寺に置いてきた女子、小田原に到着。 8月22日 昼まで雨降る。吉原まで越し候。興国寺に置き候女子、去る廿日に小田原へ越し候。 8月22日 昼まで雨降る。松平家忠、吉原まで到着。 8月24日 松平家忠の息子、小田原で誕生。 8月26日 雨降り。松平家忠、江戸まで到着。忍城、仰せ付けられ候、深尾清十郎が御使。早々に移り候えとのこと。了解した。 8月29日 松平家忠、忍城に到着。松平周防守康重より、城、請け取った。 9月1日 秀吉、京に帰還。 9月17日 十七日丙辰 雨降り。御福松様衆と、家分け済み候。 9月17日 雨降り。福松(のちの松平忠吉)衆と、家分け終了。 9月18日 雨降り。成田下総(氏長)所より音信、樽、肴、大幕一対、蒔絵の重箱一。 9月18日 雨降り。忍城の前城主・成田氏長から音信あり。樽、肴、大幕一対、蒔絵の重箱一が届いた。 9月20日 雨降り。また鉄炮にて雁打ち候者、磔に上げ候。 9月20日 雨降り。松平家忠、また、鉄砲で雁打った者、磔で処刑した。 9月28日 橋普請候。せいせんしふる舞い候。小田原より人越し候。去る廿四日に、小田原にて息子もうけ候由候。 9月28日 松平家忠、去る8月24日に、小田原で息子が誕生したこと、知った。 10月16日 岩手山城で旧城主・氏家吉継の家来が領民と共に蜂起して城を占拠。一揆は領内全土へと拡大。葛西大崎一揆。 10月26日 蒲生氏郷と伊達政宗は伊達領の黒川郡下草城にて会談。天正18年11月16日より共同で一揆鎮圧にあたることで合意。 11月2日 小田原より女子越し候。 11月2日 松平家忠の女子、小田原から忍に到着。 11月7日 秀吉は通信使を聚楽第で引見(いんけん)。朝鮮国王の国書を受け取った。秀吉は朝鮮国王の服属を褒(ほ)め、明征服の先導を命じた。 11月15日 蒲生氏郷の陣に伊達政宗家臣・須田伯耆が一揆を扇動したのは政宗だと訴え出た。伊達政宗の祐筆であった曾根四郎助が、政宗が一揆に与えた密書を持参。政宗の軍勢が撃っている鉄砲が空砲との報告もあった。 11月16日 蒲生氏郷は単独で一揆勢に落とされていた名生城(みょうじょう)を占領。 11月24日 伊達政宗、佐沼城を落として木村吉清・清久父子を救出。両名を蒲生氏郷の居る名生城へ送り届けた。 12月5日 夜、雨降る。江戸へ越し候。城出で候えば、御機嫌悪しく候て帰り候。 12月5日 夜、雨降る。松平家忠、江戸城に出仕。家康、機嫌悪く、帰った。 12月6日 同日まで雨降り。奥州、一揆起りて、早々御出馬候由候。我らは忍の御留守居(るすい)候。 12月6日 雨降り。奥州で一揆あり。早々に家康、御出馬とのこと。松平家忠、忍の御留守居、とのこと。 12月7日 右衛門は残し候て、忍へ帰り候 12月7日 秀吉は大崎義隆に検地終了後に旧領の三分の一を宛い、大崎氏の復帰を許す旨の朱印状を下した。 12月8日 忍へ帰り候。 12月8日 松平家忠、忍に到着。 12月10日 お福松衆、ふる舞い候。 天正19年 1月1日 伊達政宗からの人質(重臣の伊達成実と国分盛重)を預かった蒲生氏郷は、名生城を出て会津へと帰還した。 1月10日 相馬領に石田三成が到着。伊達政宗に秀吉からの上洛命令を伝え、蒲生氏郷、木村吉清・清久父子らを伴って帰京。 1月11日 右衛門は御兵粮の儀に、江戸へ越し候。奥州無事成られ候由にて、浅野弾正殿、頓(やが)て御帰陣候由候。 1月11日 奥州の一揆が無事鎮圧されたので、浅野長吉、やがて、帰陣とのこと。 1月19日 殿様、来る廿一日に御上洛候由、申し来り候。 1月19日 家康、来る21日に、御上洛されるとのこと。