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産経新聞の連続コラム「死を考える」を読んで考えさせられている。
デス・エデュケーション 直訳すれば「死の教育」 死の教育と言っても、「死ぬ」ことについて教育するわけではなく、「死」を理解して「生きる」事について学ぶことだ。 誰の言葉か忘れたが、「生きると言うことは、死ぬことだ。」 今は、その言葉を素直に受け止めることができるが、子供の頃は「死ぬ」と言うことを考えただけで、怖くて眠れなかった。 インドの聖地バラナシに行った際に、見た光景は今でも忘れられない。 バラナシを流れる聖なる川ガンがーでも沐浴シーンはあまりにも有名だが、あまり知られてない事実だが、その沐浴したり、川遊びをする子供達のすぐそばでには、火葬場がある。 火葬場と言っても、日本のようなガス釜ではない。 川辺に山に積まれた薪の上に綺麗な布に巻かれた死体が乗せられ、人々が見守る中で焼かれていく。 そして、その灰は聖なる川ガンがーに流される。 オープンな火葬場なので、その光景は我々のような観光客も見る事ができる。(写真撮影はタブー) 一番驚いたのは、灰を捨てた焼き後に、焼け残って落ちた金歯を探す子供達が集まっていたことだ。 日本人には到底考えられないような光景だろう。 想像するだけだと、一見おぞましいような光景に感じるかもしれない。 しかし、そこでは日常の一コマでしかないのだ。 インドの子供達にとっては、死という物は日常にあり、特別な物ではない。生と死は一体なのだ。 最近は、自分も含め身近な人の死に遭遇する機会は少ないように感じる。 核家族化が進み、通夜や葬儀を自宅ですることもなくなり、隣近所の不幸も身近に感じられなくなった。 葬儀に参列したことがない人も多いのではないだろうか。 日本においては、生と死は分離されている。死というのはタブー視されている。 生と死が分離された状況では、命について考える機会もない。 そういう状況から、命を軽視する傾向が強くなっているのではないだろうか。 最近の少年事件の話を聞くとそう思わざるを得ない。 人間は、愛する人や愛する物を失っても、その悲しみを乗り越えて生きていかなければならない。心理学者のフロイトは、その課程を「悲哀の仕事」と呼んだそうだ。 子供の場合、トラウマになったり、引きずったりすることもあるが、そういた経験が成長には欠かせないのだそうだ。 最近の子供達は、世の中の不条理や矛盾を受け止められない傾向にあるとか。 ゲームの世界では、リセットで何度でも蘇り、壊れた物また買ってもらえる。 一度失った物が戻らないのが耐えられないのだという。 神戸児童連続殺傷事件の犯人の少年は、最愛の祖母を失ったショックから、「生き物には魂があるはず。」と手当たり次第に小動物を解剖した。 幼女誘拐殺人の宮崎勤は、祖父が亡くなったことが納得できず、墓地から骨を掘り出して食べたり、わら人形で復活の儀式をしていた。 僕は、小さな頃沢山の生き物を飼っていた。 そして、その生き物たちが死ぬたびに何度涙を流したことか。 今の子供達は、汚いとか、面倒等という親の勝手な理由で、そういう経験すらさせてもらえないかもしれない。 「一度死んだ生き物が、生き返ることがあると思いますか?」 というアンケートに、 小学校高学年の3人の内2人、中学生の半数が、「生き返る」「生き返ることもある」と答えたとか。 そして、なんと大学生の中にもいるというのだがら、開いた口がふさがらない。 僕のライフワークは、環境教育だが、これからの日本には環境教育と同じぐらい子供達へのデス・エデュケーションが必要なのではないだろうかと感じた。 NHKスペシャル#アジア古都物語#第2集#ベナレス~生と死を見つめる聖地 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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