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今日は前々から読み終えたかった東野圭吾の「手紙」を読み終えた。あらすじをホントに簡単に言うと、殺人者の兄を持った弟が「兄が殺人者」ということで、夢をあきらめ、恋人をあきらめ、職場でも差別を受ける。その苦しみを加害者である兄、加害者家族である弟、社会との関係という構図から読者に見せるという作品。
映画を先に見ていたので、ストーリーの違いに若干戸惑いながらも、「平野」社長の言葉はとても印象に残った。 犯罪者の家族、親類は差別されて当然なんだよ 他人はなるべくかかわりたくないと思うだろう。でも道徳的なところから一緒にいたら気を使う。でもやっぱり、かかわらなくてよいならそれにこした事は無いと思ってる この小説は被害者家族、加害者、加害者家族という関係者以外にも社会という視点を大きく取り上げている。社会は犯罪に対してかかわりを避けようとする。差別が生まれる。でもこの差別を肯定し、犯罪抑止力にすべきだと東野さんは考えているらしい(あるホームページより)。加害者に、犯罪をしたら自分への社会的差別だけでなく、自分の家族への社会的差別もある。犯罪を社会的自殺とも述べてある。そしてこの自殺は家族をも強制的に巻き込む。 正直、人が犯罪を起こすとき、こういったことを冷静に考えられるはずは無いと思う。その意味で犯罪抑止力が発生するか疑問がある。死刑制度を少し勉強したとき、死刑の有無と犯罪発生率との関係に絶対的な関係を見出せなかった。 僕はそれよりも社会(自分も含めて)が犯罪者とかかわりたくないと思うのはなぜかと考えた。これは犯罪者だけではないと思う。障害を持った方、家柄などへの差別もあるのではないか。なぜこういった差別が発生するのか。またそれは道徳的には差別すべきではないと考えられているものであるということも興味深い。 今のところ僕は生物学的に「子孫の維持・繁栄」を本能的に考えるからではないかと思っている。社会というものは自分が存在するずーっと以前から存在するものである。その社会が受け入れがたいものとのかかわりを深めた際に生じる自分へのデメリット。それを察知して、自分への被害が及ばぬよう、避ける方向へ働くのではないか。自分ひとりでも生きていくのは大変なのに、さらに険しい道は選びたくない。 拡大解釈かもしれないが、これは貧困にもかかわってこないだろうか。昨年からワーキングプア、ネットカフェ難民といった貧困に関する書物がたくさん書かれているらしい。これは問題が大きくなってきたからということもあると思う。なぜ貧困が起きるのか。日本に貧困なんて起きるのか?途上国と比べたら、、、色々な考えが生まれるようになっているこの状況は僕はプラスではないかと思っている。貧困という言葉を以前よりも身近に感じるようになり、それから日本の貧困のみならず、世界の貧困にまで目がいくようになる。でも、じゃぁ興味はあっても、実際かかわりたいかは別の話だろう。 実家に帰省したときに、たまたま「貧困大国にっぽん」という本を読んでいて両親とこのことを話す機会があった。相対的貧困率が高まってきているようだ。なぜ、このような状態が発生するのか。なぜ変えられないのか。父からのアドバイスはこうだった。 みんな変えたいとは思っている。 でも自分達にも生活があり、自分達が生きていくことに精一杯頑張っている 余裕が無いということが現実。 社会の中で自立していない僕にはこういった観念が抜けている。というよりも考えることを怠けてきたんだと思う。 自分がこの世で生きていくためにはどれくらいの稼ぎが必要で、そのためには何をしなくてはいけないのか。そのできることをこなした上で、初めて人様のことを考えられる余裕が生まれる。 僕は心のどこかで、「どうしようもない」「しょうがない」は単なる言い訳だと思っていた。でも、自分の現在の能力と目標との差があることは事実。それを受け止めた上で、「どうしようもない」。でも現在の能力はあがるはず。このあげようとする努力を続けるしかない。結局はこの自分を高める努力を続けることが、人が成長していくことが社会を変えることにつながるのかと。。。 取り止めが無い文章をつらつらと書いてしまいましたが、、、難しいですね(@Д@; でも考え続けることをし続けないといけないと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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