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どうせあなたはすぐに忘れてしまうでしょうね、そう言われたことを今でもはっきりと憶えているというのに、何をすぐ忘れてしまうと言われたのかは思い出せない。そうやって忘れてしまったことを思い出せないままでいると、脳の細胞が少しずつ死んでしまうんだって。大丈夫、それを言われたことは憶えている。
「ほんとうに、ちょっとしたことよ」 タバコはやめたの、僕がタバコに火を点けて灰皿をアサミとのちょうど間に置くと彼女が言った。火を点けたばかりのタバコを灰皿に押し付けようと手を伸ばしたところで「煙、嫌じゃないから」そう言い、灰皿を僕の方に押しやった。 「ちょっと、したことねぇ」 「少なくとも」 「うん?」 「何かの記念日とか、誕生日とか、そういうものでは無いからね」 だろうね。自分で言うのもなんだけれど、かなりその辺はマメにやってきた。どんなにベタな手法であろうと、僕は立派に恋人を勤め上げたつもりだったし、彼女を喜ばせたという自負もあった。誕生日に味なんか分かりもしないフレンチ・レストランを予約して、本当に小さなダイヤが付いた指輪を買い、クリスマスには食べきれない癖にホール・ケーキとシャンパン、それから僕にしてみればどうしてこんな値段がするのか分からないバッグを奮発した。1年目の記念日には取ったばかりの免許でレンタカーを借りて温泉街へ旅行もした。本当に嬉しいのは、喜ぶようなことはそういうことじゃない、そう思っていたところで正解を考えるでもなく誰も教えてくれる訳でもなかったから、「どうせあなたはすぐに忘れてしまうでしょうね」そう言った顔を見たときにどうしてか、後悔した。何かしてしまったことについてなら『反省』することも出来たのに、結局本当に心の底から嬉しいということをしてあげられてなかったんじゃないかという『後悔』をした。 何かをしてしまったことより、何もしなかったことの方が取り返しがつかないんだって、たぶん、そのとき知って、それを強く感じたのはそれからひと月か、長くてもふた月後の話。2年目のアサミの誕生日には、何かをしてあげることさえ出来なかった。 「正解、聞く?」 その声で、僕が黙り込んでしまっていたことに気付く。いや、ごめん、思い出そうとしてたんじゃなくて、ぼーっとして。いちどタバコを取り出した後に、気付いてすぐに仕舞う。「いいのに、タバコ」ちょっと困ったように眉をひそめて言われると、逆に吸わないことが申し訳なく感じてタバコに火を点けた。まだ、正解はいいや。 「正解を聞いたら、脳細胞が死んでしまうからな」 「タバコ吸っても死ぬんだけどね」 「え、そうなん」 「うん、酸素がじゅうぶんにいかなくなるから、死ぬよ」 「じゃあ、もうええか、聞いても」 小さく手を挙げて、降参を表す。諦めが早いね、アサミが言って、諦めが良いんだ、と答える。 「タバコ、吸ってる姿が好き、って言ったんだけどね」 「ああ」 「ちょっとしたこと、でしょ」 「それなら、憶えてる」 「言うまで、忘れてたでしょ」 そういうちょっとした仕草とか、そう言えば「ちょっと細めたときの目」とか「伸ばしたときの指の形」っていう身体の一部分とか、彼女はそういうところを褒めてくれたり好きだって言ってくれたりした。指輪やバッグや、フレンチ・レストランのディナーじゃなかった、な。僕がアサミにしてあげれば良かったことは。 どうせ僕は忘れてしまっていたのだから、どうせ僕はそのときに気付くことなんて出来なかっただろうし、例えいま時を戻したとしても同じように彼女にしてあげることが出来るのか、ちょっと自信が無いのが嫌だった。吸いたくも無いのにもう一本タバコに火を点けた。精一杯アサミの前でカッコをつけたつもりで、でも残念なことにそれがカッコよく見えたかどうかを知ることは出来なかった。歳上の彼女に負けたって気持ちで一杯になったけれど、そもそも勝ち負け言ってる時点でダメな気がしないでもない。きっとアサミは勝ったなんて思っても居ない。 次、会うときまでにちょっとはマシになっとるわ。口には出さずに煙と一緒に飲み込んだ。僕があの頃といまと比べて変わったのは、伝票を手に取るタイミングが自然になったことくらいだった。 ***** タバコを止めて2ヵ月になるけれど、脳細胞の数は減りつづけてる気はするし、酒の量と体重は増えた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.03.28 22:25:56
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