|
俺が助手席に戻ると、先輩はゆっくりと軽トラを発進させた。荷台の二人を気遣ってのことだろう。さっきまでとは違い、あまりスピードは上げずにトロトロと進んでいく。それでも、追い越していく車は一台たりともいなかった。
「どんな奴らだった?」
トンネル内の仄暗いオレンジの光に照らされながら、先輩が訊いてきた。光と言っても、本当に申し訳程度なので表情までは分からない。
「若い男女でしたよ。俺らとそう変わらないんじゃないかな」
言いながら、本当にそうだっただろうかと不安になって、バックミラーに目を遣った。女性を荷台に乗せるのを手伝おうと傍には行ったが、彼女は男の背からそのまま荷台に降りたので、俺は下駄を預かっただけだった。その間ずっと、女性は顔を隠すようにうつむいていたし、男の顔も暗くてよく見えなかったのだ。だから、男の声の感じから、同年代だと判断したのだが。
下駄は鼻緒が切れていた。
ミラーに顔を向けた俺はぎょっとした。手前にある鳥居の間からのぞいていた男の顔は、かなり年配のそれに見えたのだ。しかも、口ではうまく言い表せないような、おどろおどろしい表情で斜め下を睨みつけている。痴話喧嘩でもしているのだろうか。男の視線の方向には、あの彼女がいるらしい。女性の頭頂部あたりが窓の下方に見えている。
何があったんだろうとミラーに身を乗り出した時、男の眼玉がぎろりと動いて、こっちを見た。皺の寄った顔の眉間に、更に深い皺が刻まれる。薄暗い照明に照らされて、彼の白眼が不気味に光った。
「どうした?」
慌てて頭を下げた俺に、先輩が不審そうに訊いてくる。
「い……いや、何でも」
俺は応えを濁した。声は同年代に思えたけど、顔は壮年どころか中年でしたなんて言ったら、笑われるに決まっている。いや、笑われるならまだいいけれど、「このトンネルを通ると中年の男の霊にとり憑かれる可能性が……」なんて話でも始まったら、この前の肝試しの二の舞だ。
何も見なかったことにしよう。そうしよう。
俺が心の中でそう結論を出した時、無情な事態が起こった。背後でカチンと固い音がしたかと思うと、悲鳴があがったのである。女性の方は声が出せないからだろう。悲鳴は男のものだった。
俺まで悲鳴を上げそうになりながらも、条件反射のように振り向く。その途端、男が叫んだ。
「来るなあああああ!!」
何事かと思ったが、百聞は一見に如かず。目にした光景で納得した。
固い音は、女性の簪が窓ガラスにぶつかった音だったようだ。窓には女性のアップにした後頭部が押し付けられていた。それに覆いかぶさるように、男が圧し掛かっている。二人はそのまま窓下に消えて行き、最後に、鳥居を掴む女性の左手だけが残った。鳥居と一緒に巾着の紐を握っている。女性にしては大きな手に見えるけれど、男の手は彼女の頭を抱きかかえるようにしていたから、彼女の手に間違いないだろう。
「どうかしたか?」
先輩の問いかけで我に返った俺は、慌てて前に向き直った。
「い、今悲鳴が聞こえた気が……」
「どんな?」
「したんですけど気のせいでした」
先輩の声が弾んだ気がして、早口で続けた。後ろで濡れ場が始まったみたいですなんて言ったら、この人の場合、停めて見に行こうなんて言いかねない。
ったく、どいつもこいつも。来るなじゃなくて見るなだろう。他人の車の荷台でいちゃつきやがって。
これじゃあ後ろが気になって仕方がない。いちゃついているはずなのに、怒鳴り声が聞こえる気がするから尚更だ。まさかあの男、他人の車で犯罪でもしてるんじゃあ……。不安を覚えて先輩を横目で見るが、彼は素知らぬ風情で運転を続けている。何も気付いていないみたいだ。
好奇心だけじゃなく、あの男の今にも掴みかかってきそうな表情も気になって、俺はまたチラチラとミラーに視線を送った。すると今度は、女性の方がこっちを向いていた。長い髪がばさばさと風になびき、顔にかかる。セーラー服のスカーフも、彼女の首に巻きつくように棚引いていた。さっきの男と同じように、斜め上から男がいると思しき窓下を見つめている。彼女は何かを求めるように白い手を伸ばし、そして――。
俺はさっと視線を逸らせた。非常灯に照らし出された女性の顔は、ゾッとするほどおぞましく見えたのだ。落ちくぼんだ眼窩に洞穴のような口。骸骨のように細い手は、相手の首を絞めようとでもしているかのようだった。
俺は、先輩に車を停めてくれるよう頼んだ。でも、何を言っても馬鹿にされそうで、説明にまごついていたら、もう少しだからと断られた。
「でも後ろ、なんか大変なことになってるみたいなんですってば!」
俺はそう食い下がってみたが、先輩は涼しい顔で、
「停めたらもっと大変なことになるかもよ」
逆にスピードを上げやがった。フロントガラスに映るのは、ロウソクの灯りにも劣る明るさのナトリウム灯と、ひびの入った灰色の壁ばかり。出口はまだ見えない。
まさか面白いものが見れるかもって、カップルの情事や痴話喧嘩のことか!?
そんなわけはないと思いつつも、すべてはこの人のはかりごとのような気がしてくる。
そうだ、後ろの二人は先輩の知り合いで、俺をビビらせるために演技をしてるんだ。きっとそうに違いない。
俺は自分にそう言い聞かせながら、早く出口に辿り着くことをひたすら祈った。それでも荷台が気になって、目は自然にバックミラーに引き寄せられた。
男の印象は、見るたびに変わった。二十代に見えることもあれば、四十代に見えることもある。一度など、中高生にすら見えた。いつも恨みがましく険しい表情で、女性に掴みかかりそうなところだけは変わらない。まるで何人もの手が、彼女に向かって伸びているような錯覚を覚えた。
女性はもうこちらを向くことはなかった。鳥居を持つ左手で、彼女がそこにいるのだと分かる程度だ。
オレンジの薄明かりに若い男の顔が浮かぶ。気弱そうな線の細い男の顔。かと思うと、筋肉質な強面。それは次第に紳士然としたサラリーマン風に見え始め、また十代か二十代のストリート系の若者に変わる。彼らは、細い腕を、太く逞しい腕を、皺の寄った手を、瑞々しい手を、何かを乞うように窓下へと伸ばしていく。
なんなんだあの二人は。いや、男だけが変なのか。見え方は俺の気のせいだとしても、なぜ何度も同じ行動を取るのか。
俺は気が変になりそうになりながら、出口を待った。先輩がスピードを上げたせいもあるかもしれないけれど、他の車が追い越していく気配はまったくなかった。
つづく
|
|
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
もっと見る
|
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
エラーにより、アクションを達成できませんでした。下記より再度ログインの上、改めてミッションに参加してください。
x
|