俺は助手席に乗り込むなり溜息を吐いた。
「あーあ、向こうは美人と帰宅するのに、俺は先輩とかぁ」
「先輩」の前に「胡散臭い」と付けたかったが、そこはぐっと我慢した。
まぶたの裏にはまだ、男が歩くのにあわせて揺れる女性の遅れ毛が焼き付いている。耳には涼しげな鈴の音が。そして鼻先には、彼女のつけていたらしい、すっきりとしたフレグランスの仄かな香が。香水なんて好きじゃないのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
「いいなぁ。あんな綺麗な人と暮らせるなんて」
「ああいうのが好みか」
「好みっていうか、一般的に見て綺麗じゃないですか」
黒目勝ちな瞳に桜色の頬、男の後ろに隠れるような仕草も好もしい。そして何より、あの愛らしい笑顔。大人っぽい雰囲気だったのに、笑うとふにゃっと可愛らしく変わるのだ。思い出すだけで、こっちまでふにゃっとなる。
男が犯罪者かもしれないという疑念は、あの笑顔ですっかり払拭されていた。少なくとも、襲われそうになった男の背で、あんな穏やかな笑みは浮かべられないだろう。
やっぱり男の怒鳴り声は幻聴、バックミラーで見た彼らの表情は目の錯覚だったのだ。
「ただの同居人って言ってたけど、やっぱ付き合ってんでしょうね」
なんで同居人だと嘘をついたのかは知らないが、あんな美人の恋人がいるなんて羨ましすぎる。いいよなぁと呟いた俺に、先輩はせせら笑いながら冷や水を浴びせかけてきた。
「ばーか、ありゃ男だ」
「はぁ!? 誰が」
「だから、あの浴衣の奴」
「何言ってんですか。あれのどこが!? 何を根拠に!?」
「ここ」
先輩が指したのは自分の喉のでっぱりだった。つまり、喉仏である。
「女にしてはこいつが大きかった。声は聞いたか?」
まさかと思いつつも首を横に振る。
「声、出ないみたいで……」
「でも、乗る前に連れに何か耳打ちしてただろう。バックミラーで見てたけど」
言われてみればそうだった。俺とのやりとりは口パクや身振りだけだったが、男には直接耳に向かって囁いていた。俺は大きな声が出せないだけかと思っていたのだが。
「だからって、まさか……」
だから『ただの同居人』で『この先も』だったのか。強く否定していた男の様子を思い出しながらも、俺は信じられない思いで呟いた。
そりゃ、メイクやかつらで絶世の美女に化けちゃう素人男子とかたまにテレビで見るけど、あれはテレビ画面を通してるから男だって分からないだけで、彼女のことは間近で見たのだから、間違えるはずないだろう。一瞬だが触れさえしたのだ。いくら俺が妙齢の女性に触れたことが皆無に等しいといっても、気が付かないものだろうか。まぁ、たしかに女性にしては大きな手をしていたし、背も高かった気がするし、足の感じも……あれ?
いやいやでも、仮にあの人が男だとして、女装していた意味が分からない。趣味? それともあの、ナントカ同一性障害とかってやつとか? いや、やっぱりそこは、先輩の思い違いだろう。
「ま、男だろうが女だろうが、あんな化け物、俺はごめんだね」
俺の混乱を知ってか知らずか、バイパスの出口に向かって軽トラを減速させながら、先輩が言った。
「化け物?」
俺は眉をひそめた。
下道と交わっている信号が赤に変わり、先輩がブレーキをかける。
「きみも見たろう。何人もの男や女があいつを引っ張ろうとしてたの」
「え、あれは印象が違って見えただけで、あの男じゃあ……って、先輩、見てたんですか!?」
すっかり運転に集中しているものと思っていた。
先輩はニヤリとした。
「何のためにあいつらを乗せたと思ってる?」
「親切心……じゃなかったんですか」
この人が、そういうものを持ち合わせていると思った俺が浅はかだった。先輩は楽しげに続ける。
「あのトンネルはな、通った人間や物に憑いているモノが視えるんだよ。そこに居る霊が出てくるんじゃない。普段から付きまとってる霊が目視できるんだ。ま、あそこまで大量に憑けてる奴に遭遇できるとは思ってなかったがな」
「それじゃあ……」
「きみがミラー越しに見た顔はさっきの奴らじゃない。いくらなんでも、二十歳そこそこの浴衣とTシャツの人間が、セーラー服の女子高生や胡麻塩頭のジジイに見えるわきゃないだろ」
「あ、」
言われて初めて気が付いた。そう言えば、あの浴衣姿の人は荷台から降りる時も髪を結い上げたままだったのに、俺がミラー越しに見た彼女は長い髪を風に流していたのだ。思い起こしてみれば、男が幼く見えた時には、高校の制服のようなブレザーを着ていたような気がする。
先輩の話では、女の顔も俺が見た一人きりではなかったようだ。ショートカットの娘や、セミロングでワンピース姿のもいたらしい。
「ありゃみんな、あの浴衣の奴に憑いてる霊だ。どいつもこいつもあいつだけを狙ってた。死霊だけじゃない。ほとんどが生霊だ。あんなの山ほどくっつけて平然としてるなんて、まともな人間じゃねえ」
そんなことが分かるあんたはどうなんだ。
先輩の話を全面的に信じるわけではないが、信じれば納得できることもあった。男の悲鳴と奇妙な行動だ。
彼もあの霊が視えていたとするならば、悲鳴を上げたことや同居人を抱きすくめていたこと、俺の声に怯えたこともうなずける。あの男は、次々に襲ってくる霊たちから同居人を守ろうとしていていたのかもしれない。いや、降りるときに謝っていたから、怖くてしがみついていたというのが正解か。どちらにしろ、俺のことも幽霊だと思ったのだろう。
彼女の方は平気な顔をしていたから、怖くなかったのか視えていなかったのか。まさか慣れてたから……なんてことはないよな。
俺は、犯罪者だと思ったことを心の中で男に詫びながら、気になったことを訊いてみた。
「だから、あの男に離れた方がいいって言ったんですか」
「あいつはまだ大丈夫みたいだったからな」
「まだ大丈夫って、離れなかったらどうなるっていうんですか」
「あの浴衣のは別に霊媒体質ってわけでもなさそうだった。なのにあれだけの霊に狙われてるってことは、それだけの人間の人生を狂わせてきたってことだ。そんなのとずっと一緒にいたらどうなるか」
先輩はそこで言葉を切り、俺の方を向いてニタァと笑った。信号が青に変わる。左の口角だけを上げた笑みが、薄緑に浮かび上がる。
突如、あの可憐な笑みが別の意味を持ったそれに思えて、俺は怖気だった。
「言ったろう。いつか喰われるって」
先輩はそう言って、アクセルを踏み込んだ。
6.5.トンネル 終
’10.5.8
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久々すぎて、ちょっと文体が変わってるような気が……。
この主人公の一人称ってこんな感じで良かったっけ??(おい)
なにはともあれ、読んでくださってありがとうございました!