カテゴリ:ちょっと考えたこと
さきほど、SNSを例にとって投稿をしました。
SNSの投稿をみて、みなさんはどのようなことを日ごろ思われますか? ああ、あの人は こんな充実した毎日を送っているのか。 こんなに大変な思いをしているのか。 楽しそうだな。 上手くいってそうだな。 つらそうだな。 苦労していて大変だな。 感想をあげればきりがないとは思うのですが、 そういう感想の中に、 その投稿をみている人にボタンを押させるスイッチみたいなものが あるんじゃないかと思うんです。 ちょっとうまく言えないんですが。 そして、、、 投稿する人も、 「他人が自分の投稿にボタンを押したくなるスイッチのツボ」 というのを心得ていたりするのではないかと。 それは 本人が明確に自覚している場合もあれば そうでない場合もあるかもしれない。 別に人の気を引こうと思ってるわけじゃないし。 たぶん、無意識な場合のほうが多いのかもしれない。 *** 常日頃、自分の承認を満たしたい欲求の強い人は 何らかの方法で、他人が自分の方を振り向いたり、注目したり、評価したり、ほめたりすることを 求めていて、誰かがそうしてくれる言動をしている可能性があると思います。 それは、一秒一秒が連なっている毎日の中で ときに自分がものすごく、リアルに充実した瞬間 ときに自分がものすごく、苦労して辛かった瞬間 の一コマを切り取って表現しているのかもしれない。 そうすることもできる。 それについて、周りがどういう反応をするか、をたぶん、ですが分かっている。 だから、それに対しての予想通りの反応が欲しい。 でも、必ずしもそれが満たされるとは限らない。 そして、もう一つ気になるのは、 承認が欲しい人が、自分の持っていない何かを持っている他人が それを表現したりしているのに触れた時。 その瞬間、たぶん自分の欲しい承認が得られるどころか、 そうでない自分と比べたりすることによって どーん。と、落ち込んでしまうのかもしれない。 自分は苦労している。 あの人は良い思いをしている。 気にいらない。 それも・・・SNSのアクションとして、時として表現されているのではないかなと (あくまで空気なのですが)私は感じます。 *** 承認を得たい人が得られないがために、 直接的ではないいわゆる「批判のリプライ(エアリプを含む)」や、 あえて反応しない、返信しない、などのアクションをおこしたとき、 それをされた人の中には さらっとやり過ごせる人もいると思いますし(世の中にはそういう人もいる、と受け流す) どうしてそういう扱いを受けなければならないのだろう、と 少し、深刻目に悲しくなる人もいるかもしれない。 正直言うと、私はどちらかというと、後者に近いのかもしれません。 アクションを起こせばリアクションがある、と思っているし、 リアクションしてほしい、と思っている。 (これもまた承認欲求) それが得られないと、私も承認が得られない不満を抱えるわけです。 悲しい、悲しい、悲しい。 ・・・でも、ちょっと待てよ? 自分が「承認を得たい他人のアクション」(それも、自分に対してマイナスな何かをきたらすもの)に対して、いちいち、気を遣ったり、悲しんだりするのって、どうなの? エネルギー削られる。 誰得? ・・・自分のためにはちっともなっていないんじゃ? *** 注目してほしい人は、時に手段を選ばないのかもしれない。 表現している内容はもちろん、ウソではないと思う。 でも、その切り取り方、表現の仕方、タイミング、は アウトプットする人がコーディネートできます。 ものすごく、充実した内容であっても、そうでなくても 発信する人は、 リアクションのベクトルを感じている。 で、発信する人の欲求はその人のものであり、 それを満たしてあげられない自分には、何の非もない。 何の非もないどころか、そういうことに振り回されることでの 自分へのダメージはデメリットになるのかも。 その人の問題、課題はその人の中にある。 「私、こんななの!」 というアウトプットに、周囲の他人は何の責任も持たないし、持てない。 それどころか、中途半端なアクションが 承認を求める人に過度な期待をさせてしまっているかもしれない? 「あの人ならこう声をかけてくれるだろう」 「あの人なら、こう思ってリアクションしてくれるだろう」 …その他もろもろの期待(勝手に持たれている場合のほうが多いと思う)に はたして、どこまで沿えるのか、沿えないのか、そもそも沿う必要があるのか。 そもそも沿えると思う自分は傲慢なのかもしれないし、 沿えなかった自分を卑下する必要もないし、 そういう中で「期待に沿ってくれないリアクション」に対して荒ぶる人がいたとしても。 こちらがいちいち、動じたり、不愉快になったり、振りまわされたりする必要なんてある? そんな必要ない。 その人の問題はその人のもの。 本当に困っていて、吐き出しているという人もいると思うし、 助け船を出してほしいと本気で思っている人もいると思う。 声をかけたり共感することで力をもらえたりもする。 会話することで気持ちが紛れたりもする。 そんな「良いこと」まで全否定するつもりはないけれど 必要以上に、誰かしらの「気を引く」アウトプットによって 自分が不愉快になったり、振りまわされたりする必要なんて、ない。 それに対する責任も、ない。 くどいけど、そもそも、責任なんてとれない。んですよね。 *** きっと、自分のおごった気持ちがあったのかもしれないです。 もしかしたら、その人の力になれるのかな、とかいう気持ち。 優越感の裏返し?だとしたら、気持ち悪い。 いいね、は 相手を救わないことのほうが 場合によっては多いのかもしれない。 実際どうなのか、検証データもないのですが(笑) 少なくとも 「承認が欲しくて、ちょっと目を引いたり過激なことを言いたい人」 の一喜一憂や、アクションに振り回される必要はないということ に気がついて、ちょっとスカッとした感じがします。 私の投稿に、誰がどう思っても、その感情はその人のもの。 誰かの投稿に、自分がどう思っても、その感情は自分のもの。 自分のせいで誰かを不愉快にする、とか 誰かのせいで自分が不愉快になった、とか そんなことのためにあるのなら、SNSをつかう意味なんてない、のかも。 いやなら、見なければいい。 反応が気に入らなければ、ブロックすればいい。 TLは自分で作れるし、不愉快な反応は自分でさえぎることもできる。 すべて、自分。 自分の感情に責任を持とう。 それを、もし自分に転嫁してくるような人がいたとしても 他人の承認欲求に振り回されないようにしよう。 …ちょっと気がついてすっきりしました。 長文になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.12.28 23:29:03
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