カテゴリ:ちょっと考えたこと
子どもの成長とともに、親ともなると自分の子のさまざまな「成績」を目の当たりにすることになります。
学校の学習成績、その他のことをしていれば・・・スポーツなどなら試合だとか検定だとか、もあるでしょうか。 その時々に、何らかの成績を出している子どもに対して、 大人は何かしらの評価をし続けているのではないかと思います。 昨日はふと、そんなことについて考えたので綴っておきたいと思います。 *** 子どもの武道にたとえていうなら、やはり試合が勝負の場になってきます。 個人戦、団体戦、年間何度となく、試合に出ます。 小学生の間は少年大会。 中高生なら年間なんどかの大会。市内大会から地域の大会、県大会、もう一つ大きなくくり、全国大会。 その都度、何かしらの成績が残ります。 入賞したのかしないのか、また何位だったのか。 誰と試合をして、何対何でどうなったのか、が目に見える状態になってきます。 親も指導者も人ですから、自分の子や教え子が勝ってくれるにこしたことはない。 それを望まない人はいないでしょう。 しかし、大人がどう思う、かは別で 大人の思うような結果になるかどうか、それはまた別の話だったりします。 *** では 大人の視点で「どうなってほしいか」について考えてみます。 これはスポーツの成績以外にも、学業などについても言えるかと思うのですが、 たいていは、大人の「見える範囲でそこそこよさそうな結果」を望むのではないでしょうか。 その大会に入賞する。入賞が常連なら優勝する。次の大会に行く。 それができればOK、できなければ残念、という「評価」を下すことも多いでしょう。 ここで注目したいのは、上記の「OK」と「残念」と現実の「結果」の関連性です。 たとえば、市内大会での入賞について、「なにをもってOKなのか、または残念なのか」ということです。 その大会で賞をとることが何を意味するのか? よくあるのが、「入賞の結果はその後の入試の際の内申書に書いてもらえる」 みたいなことです。 実際それが、入試にどんな影響があるのか、ということについては 明確にどうなのか不明だったりもすると思うのですが、 「できれば、勝って、書いてもらいたい」 というような気持ちによっていくのが大人(保護者)の心理としてあると思います。 また、 「賞」=「すばらしい、たいしたこと」 という認識が強い人の場合は、 やはりそういう結果をのこしてなんぼということを思う人がいるかもしれません。 確かに、何かごとにつけて「上位に入る」「トップに立つ」というのは簡単なことではない場合が多いと思います。 準備や日頃のあれこれを何もせず、賞を手に入れるひともいるでしょうが、 たいていの場合は積み重ねたいろいろを背景に手に入れる人も多いのではと思うのです。 ですが、問題はここで大人が 「OK」か「NG」を下してしまうということ。 なにをもってOKなのかNGなのかの根拠があいまいな中、 私情でそういう評価をしているというところ。 で、いずれにしても、NGというようなマイナス評価をされた場合、 それが「本当にマイナスなのかどうか」は別としても、子どもにとっては 「マイナスの評価をされた」ということしか残らないのではないでしょうか。 *** 子どもも大人もそうかもしれませんが、 始めてから何年も経験を積み重ねたりする間に、ステップを踏んでいくとおもうのですが、 たとえばスポーツなら、スタートして少年チームの間に賞をとるのか、 中高の間に、またはそれ以降「賞をとるのか」「とらないのか」 などあると思うのですが、 どのタイミングのどの場面で、どういう結果を残したから 「その子にとって」←ココ大事なとこです どういう意味があるのか? それは周辺の大人が下すべき評価ではなく、あくまで本人がどう感じるか、のほうが 大事なのではないかと思うのです。 その子の人生のなかで、どのタイミングでなにがあったか なんて その子にとってそれぞれで、 出した結果がどうならいいのかorよくないのか だって、 誰かほかの大人が決められるようなものではないはずで。 もちろん、子どもだって賞をもらえるならほしいかもしれない。 そのために頑張りたいと言う子もいるかもしれない。 そういうときに力添えしてあげられる大人の存在があれば、と 理想に思ったりもしますが、 主体は子ども ということを、大人は忘れがちですし、 学校やなにかで指導する人が「親がちゃんと力を注いで」というような「指導」を するような場面さえあったりします。 必要なときに協力をするのと、 大人主体で干渉したり、評価をおしつけるのは 何か違うのではないか。 親ともなれば、子どもが賞をもらったり 輝かしい瞬間があればうれしいのは当たり前のことなので その辺りの気持ちは痛いほどわかるのですが あまり、「大人が嬉しい」があからさまだと、 子どもはその「嬉しい」を引き出すために、それを動機に最終目的に 動くようになったりすると それはそれで、ちょっとどうなのかな?ということがありはしないだろうか。 そんなことも思ったりします。 出来ることは力を添え、本人が喜んでいるときは一緒に喜ぶ。 でも結果やそのときの気持ちは本人のもの。 そういう気持ちをわすれないでいたいとふと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.02.04 23:04:07
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