カテゴリ:ちょっと考えたこと
自分は専業主婦なので、収入がありません。
2013年の今頃から不定愁訴というのか体調がすぐれず、子どもが現在小学生だとか もろもろの理由で就労をしていません。 こういう人は、日頃「報酬」というものと無縁で暮らしており、 その割には家事やら子どものことやら、必要なことはいろいろあって 自分の用事はそっちのけで?駆けつけたり都合つけたりと しなくてはいけないことがあったりもするのです。 が、誰も感謝の意を表するわけでもなければ 報酬が支払われるわけでもない。 夫の収入があって生きていられるんだから、三食昼寝付きでしょ?と言われるでしょうか。 *** 人は、無報酬で生きていけるものなのか。 そもそも報酬とは・・・。 就労して、給与が支払われる人は、その額だとか 就労の内容だとかによって、得ているものが人それぞれかもしれません。 「やりがい」 みたいなものが、給与の額などよりも意義を持っていて、 (もちろん最低限のラインを下回るようでは考える場合があるとは思いますが) むしろお金に困らないだけ手元に払ってもらっても、 やりがいだとか、そういうことに悩む人はいないのだろうか。 報酬とは・・・ 金銭だけではないのかもしれません。 日々、ちょっとした「ありがとう」という言葉とか 具体的なことばではなくても、 自分のしたことに対してなにか、返ってくるもの、反応、手ごたえ みたいなもの。 それがあることで、何かしら意義を持っているのだなと思えるような何かがあれば 行動や努力のモチベーションになっていくのかもしれませんが。 *** 私は自分が体調を崩し、かつてのような日常生活や市民活動ができなくなって (役員などを降りざるを得なかったし、外に出ての活動も事実上不可能になった) 自宅でSNSでの広報を担当するようになりました。 正確に言うと、自分が作って勝手に?運用していたものに リアクションしてくれる人が増えて フォロワーも増え、学ぶこと、もっと広報していろんな人に知ってもらう それが 動けなくなった自分の自己実現の一部になったのかもしれません。 ※誰に頼まれたわけでもなく、未だに「特段頼んだわけではない」という見方をされていると思いますが。 自分の自己実現の一部 と言えば、もっと大きなものの一部のようにも聞こえますが 実際、自宅にいて、画面に向き合う中、自分の中で占める部分が大きくなっていったのかもしれません。 その中で、自分の発することになにか感じた人はリアクションをしてくれて、 こちらから話しかけることもありつつも、 なんとなくこちらからのメッセージを受け取ってもらえたようで嬉しかったりもして それがすなわち 社会活動の一部を担っている認識から 自分への評価 だったり お金ではない報酬 だったり するのかな? あとは自己満足と言われてしまえばそれまでですが、 「こういうことを発信していくことの意義、それを行っている自分」 に対して、自分への評価?みたいなものもあったように思うのですが。 *** しかしふと、我にかえると。 私は団体の中で主要なメンバーではない。 かつては役をやっていたり、法人立ち上げ、もろもろの事業のスピーカーなどで 出かけたりはしましたが、 今は活動はできていない。 中の様子もよくわからない状態。 意見を述べたところで説得力がないのか なかなか、伝えたことも伝わらないような そんな感じもある中、 そのうち、誰もそこに関心を示さなくなっていったら どうなるんだろうと思うと、 何となくここまでやってきたことが何だったのかなと 思ったりはします。 自分がやってきたことは一体なんだったのだろう? *** 家事育児に専念した ボランティアにまい進してきた と言えば、かっこいいような感じもしますが、 だから、何だというのでしょう? 成人した子どもたちは、もはや自分の足で歩いていこうとしている。 それも彼らの強さゆえ、本当に感謝している。 で自分はいったい? そうした立派な子どもたちを、自慢しに行けばよいのでしょうか。 自慢の息子を育てた母ですとでも言えばいいのでしょうか。 私が育てたわけではない。 そんなことをたてにとって自慢したりという みっともないことをするつもりもない。 そこで何が残っているのだろう? 誰からも感謝を述べられることもなく報酬も評価もないなら 自分はなにをもって なんだということなのだろうか。 自分の心のよりどころとは。 なんだか暗っぽい話になってしまいました。 いつか、あんなことを言っていたね。などと思ってみたいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.02.22 23:28:29
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