久しぶりに聞いた言葉かもしれません。
「躾」。
とある会話から、出てきた言葉です。
私には、一緒に住んでいない息子が2人います。
長男は社会人2年目。
次男は大学4年生。
高校卒業してから、親元から離れて暮らしています。
周りにいる人も違う、日々の暮らし方も変わってそれぞれががんばって生きていると思います。
たまたま私の実母と息子の話をしておりました。
長男は社会人になったので、なんというのか、家族に何か払ってもらったりするのが
気になることもある様子。
夫の母はよく「社会人になったら、子でも孫でもやたら小遣いあげたら失礼だから。自立した人なんだから」
と言うことがあり、そういうものかななどと聞いておりました。
長男と先日出かけることがあり、私が事前に切符を買って渡したところ、
切符の代金を払わなくていい?と聞いてきたので、いいよいいよ、と返しました。
その話を実母にしたところ、とても解せないことだというような反応でした。
「そりゃ、社会人になって給料をもらい自立しているのだから、理由がなければ
無条件で誰かに何か払ってもらうのもなあ、と思うものじゃない?」と
私がそういうと、
「それは躾がよかったんだね」
と返され、「躾?」と思ってしまいました。
昔は、躾という言葉をよく使ったのだろうと思うし、子どものいろいろについては
親が教えたり指導したりしてそのように導くのが当たり前だったのでしょうか。
というか、私自身は、子どもなんて、親が「こうしなさい」と言ったようになるかと言えば
そんなことばかりではないだろうと思っていて、むしろ
子どもの出来不出来について、それは「親の躾がいいから」みたいな発想はあまりありませんでした。
長男も次男もがんばって暮らしていると思うのですが、そのいろいろは
決して私の躾が良かったとかではないだろうし、「躾」という言葉自体、自分は使いたくないと思ってしまいます。
もちろん、自分が大事にしていることは彼らに伝えてきたこともあるから、
そういうものだと思ってくれていることがあるかもしれない。
反面、親はああ言っていたが、親元を離れていろいろな人に出会ったりする中で
親の考えだけがすべてではないし、それが正解かどうかもわからないものだ。
もしくは、
親のああいうところはどうかと思うから、そうはならないようにしたい。
など、成人した彼らの行動や生活のもととなるものは、必ずしも
幼少期から関わった親や家族の影響「のみ」ではないと思っています。
子どものいろいろと、親との因果関係。
親がダメでもしっかりしている子もいるし、
子どもが立派な成果を出したのは親の成果であるわけでもない。
と思っているので、
いいと思ったことに「躾がよかったから」と言われて、とても戸惑いました。
時代背景もあるのかもしれないけれど、
子どもをこういう風に「育てなければいけない」「躾けなければいけない」というのが
おそらく実母の中にはあったのかもしれないな、とも思ったり。
つい、成人して何十年も経ったわが子に対しても、母から見て気になることがあるというのは
親である自分の躾のせい、というような感情があるのだろうか?などと…。
親と子は家族だし血縁はあるけれど、別の人間。
案外子どもの側は、親に対して違うと思えばシフトチェンジしたりする場合があるのかもしれないけれど、
親の側はどうなのだろう。
躾、というキーワードから考える機会になりました。