カテゴリ:ちょっと考えたこと
ネットで、毒親ということばをよく耳にするようになりました。
もともとはこちらの、スーザンフォワードの本から使われるようになった言葉だそうで、 私もこの本を20年近く前に読みました。 毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫) [ スザン・フォワード ] 子どもに影響を与える身近な大人の代表は親、ということは大きくあるのかもしれません。 成長期にそばにいる大人は、人間の場合は安全に、安心して生きて行けるようにはぐくむ 必要があるのです。 何らかの理由や社会的背景、風習などにより、それが阻害される場合があるものだということを 痛感します。 本当に、子育てって深いというか、正解がないというか。 *** ところで 最近、ネットでよく見る「毒親」という言葉をみるときついなと思うこともあります。 それは、 かつて自分の生きづらさの部分が、自分の生育環境に起因するのだと感じたとき 納得とともに、自分が悪いわけではないという安堵を感じたものですが、 そういう自分も今は親となっていて、自分を振り返り、 毒親的要素がないかと言えばそんなことはないのではないかと思ったりするのです。 もちろん、昔から継承されてきたやり方できたこともあれば、 そうじゃないこともあるのだけれど、何が正解か不正解かも今一つわからない。 子どもに対する不適切な対応はなされるべきではない、という理屈と 追い込まれた人が陥る穴のようなものの間にあるもの。 それを埋める方法はないのだろうか。 *** 生きづらさが自分自身に起因しているのではない、ということを知るために こういった考え方は有効だと思う。 その後も そのせいで、誰かを恨んだり、自分の人生そのものをその人のせいにしつづける生き方も しようと思ったらできる。 誰誰のせいで、自分はいまこうだ、誰誰のせいで…。 *** これはあくまで私の私見だけれど、 そろそろ、自分の人生を誰かのせいにばかりし続ける思考は辞めたいと思うこともある。 だって、今の、これからの自分の人生について、過去の誰かのせいでかなわない。 と決めつけたところで、その人に何ができるだろうか。 対話しても、その内容が受け容れられる場合(人)とそうでないこともある。 相手は変えられない。 こども相手に生きづらい育て方をした人には「恥」といった背景があると、 専門の方が何かに書いておられたのだけれど、 それを思うと、批判を突き付けることで先方がはいそうですか、となるかどうか 怪しいとも思ってしまう。 だから、0、100思考でいくのかどうか。 自分のせいではないということに気づくのも自分、 その上で誰かのせいだと決めるのも自分、 その人との付き合い方を決めるのも自分。 そのときに、該当の人と敵対する必要があるかどうかを決めるのも自分。 回復の過程で、家族と対峙している人もいるし、それがかなわない人もいるし これもどうじゃないといけない、というのもないのかもしれない。 自分が後悔しないように出来たらいいなとは思うけれど。 誰かのせい、も なにもかも誰かのせいなのか。 そうじゃない部分に目を向けることもできる。 それすら、自分が選択できることではある。 *** もしかしたら人のせい、を手放す瞬間があるのかもしれない。 もちろんこれは誰かに対しての指図でもないし、自分に対する言い訳でもなくて ただ、それにばかりとらわれすぎず、 (ときおり説明が必要になったときは引っ張り出す引き出しの中にあるけれど) 目の前のこと、これからのことを考えることがあってもいいのかとも思ったので記録しました。 *** これから自分も家族と関わっていく中で、困った要素が出てくることはあるかもしれない。 自分の感情は自然にわいてくるもので(止めることはできませんね) たとえば不安などから家族に過度に依存したり、縛りたくなったりすることがあるかもしれない。 先の本を読むことで「こういうやり方も相手にとっては苦しみを与える場合がある」ということを 知っておくのにも役立ったと思うし、 自分の心配や不安が元にある行動ならば何でも許されるわけでもないということを 心に刻んでおくこともできるのかなと思った次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.02.26 21:24:30
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