世間で、「身の丈に合った受験」「身の丈に合った入試」というワードを目にしました。
身の丈に合った とは
昨年他界した父のことを思いだしたので、記しておこうと思います。
***
私の父は昭和7年生まれ。
第二次世界大戦、昭和の戦時を生き抜いてきた人です。
終戦時にまだ小学生だった父は、戦争でその父(私から見ると祖父)を亡くしたそうです。
当時、体調の良くなかった父の母(私から見た祖母)のこともあり、
兄弟(父とその姉、弟2人)は親戚などの家を転々としていたころがあったそうです。
そんな頃、知人の世話で勉強をする場を紹介されたというような話。
(これは他界したあと、親戚の人から聞かされた話でした)
当時の専門学校?のようなところでしょうか。世話をしてくれた方がおられたそうです。
そこで学んで父は、旧の公社へ入社。
優秀で、その公社の中でもホープだったと当時の父を知る人が、私の姉に話してくれたことがあると、ずいぶん後になって聞いたのです。
東京で勤務していた父ですが、家庭の事情もあり故郷に帰ってきた経緯があります。
そんな話で思うのは、身内になにかあって「経済的に」学んで次のステップへ行こうとしてもそれがかなわない人がいる。
私が成人して今生きているのだって、父がそうして生きてきた先にあったことであって
父の恩人は私の恩人、でもあるのかもしれない。
父は、私に大事なことをたくさん教えてくれたように思います。
それは、勉強がどうということでもなく、ただ
「人への尊厳」だったような気がする。
「人の名前は、一文字でも間違えたらいけない。それは、その人の一部でありとても大事なもの。」
「似た漢字がたくさんあって、点ひとつ横棒ひとつそっくりでも、人の名前の文字もその人のもの。まちがえないように。失礼のないように。」
「その人のせいでそうなったわけではないことを指して、笑ったり貶したりすることは絶対いけない」
***
ここからは私の考えなのですが
父がこういうことを言うのも、きっと
人としての尊厳について考えてきたからではないかと思う。
逆に言うと、親がどうだから自分がどう、の物差しにすることについて
大きな疑問を持っていたのではないだろうか。
親子だから、全く影響をうけないなんてことはないのだろうが、
子どものことを「親がどうだから○○」と言いきってしまうことの問題。
まして、今言われている「身の丈に合った○○」みたいなことは、
子どもの立場の人が、一人の人として生きて行こうとする姿を周囲の大人が否定するというか
それもまつりごとをリードする立場の人がそれを言ってしまうこと…。
産まれてきたところがどうであれ、その後、どう生きるか、の方が大事なのではないか。
そう思って、異を唱える人が多いのかもしれません。
人は、生まれ持った環境に甘んじておけばいい?
それで安寧に生きていける人はいいかもしれない。でも
人並みの生活とか、幸せとか、そういうことを追い求める権利を日本は認めているのではないでしょうか。
「生きる」ことと直結することもある、その人の置かれた立場、環境。
子どもながらに学ぶ意思がある、能力がある人をバックアップする大人の存在は大事なのではないかと私は身をもって感じるのです。
追記:
父は文具にくわしくて、私にいくつかいろんな文具をくれました。
それは、設計畑?にいたから?
いろんな道具をつかい、自分でなんでもする人でした。