カテゴリ:ちょっと考えたこと
LAの人気精神科医が教える共感力が高すぎて疲れてしまうがなくなる本 [ ジュディス・オルロフ ] 私は、共感力が高いのかどうか? そしてこれまでどんな関わり方を周囲の人としてきたか?を 考えさせられた内容でした。 *** これをきっかけに、「共感力」というものを考えさせられました。 共感力、というと人の気持ちが分かる、分かってあげられる そんなポジティブなイメージを持ちがちですが、それが極度に強い場合、 自分の中に人の感情が入って来すぎるということがあるのではないか。 *** 身近なところで、たとえば家族と話していて、 家族がもつ感情などもこちらに入ってくることがあります。 入ってくる、というよりキャッチしてしまうという感じが強いのでしょうか。 先の本にも、それでキャッチして体調を壊してしまう人もいるというような 記載があったのですが、 なんだか私もそれが分かるような気がしてしまう今日この頃です。 身近な人が心配事を抱えている。 話を聞くこともあれば、様子を見ながら感じることもある。 心配がこちらに入ってきてしまう感覚。 大切な人のことを思えばこそ、心配ごとをわが事として考える。 私が、心配ごとを解決してあげないといけない、みたいな感覚にとらわれる。 *** 自分は自分をリカバリーする力があるのでしょうか。 気持ちがきつくなってくるとふと、本当にそれでいいのか?と思うようになってきたりもします。 私が、家族の心配をしてその懸念を取り払うべくとにかく動かなくては。 そう躍起になっているさなかに、さてちょっと待てよ? やはり、最後は本人なのではないか。 たとえば離れて住む家族の心配は、心配し過ぎてもきりがないほど。 なのに、たまに帰ってきた顔をみてきつそうな様子をみたらどうしていいやら…。 だがしかし。 私に何ができると言うのだろう。 大人相手に、その人がどう暮らして、どう生きて行くのが良いのか幸せなのか、 どうすべきなのか。…それを誰が決めるのか。 はたして自分のそばにいたら、その人は幸せでいられるのだろうか。 常にすべてを見張って管理してあげれば、その人は幸せになれるのだろうか。 そう問いかけたときに、そんなことはないのかもしれない。 という結論に至ったのです。 どこにいて何をしたくて、どう生きるのか、は本人の問題で。 そこに私がいて、何を思って管理するとかしないとかの問題ではないはず。 …もちろん、力になれる人が(誰であれ)近くにいて、サポートできるかできないか、は 全く意味がないとは思わないけれど、それとは別で。 現状がどうだから、その後、自分がどう動くのかを決めることも含めて すべて、本人が決めること。 *** 先ほどは、他人から境界を越えられてしまうという見方をしたけれど、 逆に言うと境界を超える側の人は「ここなら分かってくれる、越えられる」と 察知する力を持っていたりもするということなのでしょう。 もしくは 誰かに境界を越えられてしまう人は、場所を変えて誰かの境界を越えようとすることが あるのかもしれない、とも思ったり。それが無意識の場合があるのかも。 いずれにしても 人の境界を越えても越えられても、両者にとってプラスなことはほとんどないのだろうと思います。 おそらく、誰であっても程度の差こそあれ 境界を越えそうになったり、越えられそうになったりしたときに、 自己防衛本能が働くのではないかという気がします。 あれ、、、これは?と何か違和感があったり苦しさを感じたときは 少し遠間から静かに見てみることが必要かもしれません。 自分以外の人のことを、私が私の思うようにするなんていうことはできるはずもなく 出来たから誰が幸せになるという保証もない。 ということを、思い出す必要がありそうだなと思った次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.01.01 21:52:51
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