カテゴリ:ちょっと考えたこと
ちょうど、facebookの過去の記事が出て来て、6年前かあ、と思ったこと。 親子イベント企画に参加したのが6年前の2月22日。 その日は、少し前から動悸とめまいが起こっていて体調不良でした。でも、 自分の担当があるし、わたし以外の家族も参加するので出掛けなくちゃと思ってしまって。 なんとか一日終えましたが、「なぜ来たの!?(怒)」みたいに言った人もいましたね。 あの日を境に?関わっていた活動への参加がほぼ出来なくなりました。 なぜだろうか、考えてもよくわからないのですが、何かしら理由はあったのでしょう。 *** からだのサインはからだからのヘルプ要請だったりします。いわゆる、防御機能のような。 もうそれ以上、無理をしない、今の生活を振り返れ、というような。 唯一、助かったのは活動の中の作業を伴うお役を数年前に他の方に頼んでいたこと。これだけは本当によかったのです。受けてくださっていて有りがたかったです。 その後の団体も活動を、継続され、わたしはSNSの一部を担っていますが実質活動していないようなものです。 当時の知り合いともほぼ会話も会合もしなくなりました。そこでの活動のウエイトが高かったので生活が一変してしまいました。誰ともほぼ話さない毎日を未だにおくっているのです。 *** 20年あまり前にわたしが感じていた、子育てのしづらさや母親というものに課せられる重さみたいなもの。抱えきれず苦しい気持ち。 それが、結局は子どものためにもならないものだと強く感じて、何かしら子育てにまつわる「政」に変化を働きかけられたら。そんな思いで関わり続けましたが達成感はない。未だに少子化は加速し20年前と同じ課題も山積みです。(よくなったことも多少はあるかな) 行動して変えられなかった自分に無力感を感じています。 そして、今の課題は自分の居場所みたいなものです。 居場所というと大袈裟ですね。 なんというのか。 わたしと同年代の人は比較的就労の場にいて忙しくしています。だから、そんなことを考える人は少ないのかもしれない。 でもいろんな理由で職場に出向いていない人「どこに居る」ものなのか?誰と話して一日どう過ごすのか? これはとても重要なことだと思うのです。 いわゆる、居場所、と言えたりするのではないかと。 今のわたしには居場所がありません。 家にいればいいのですが、大人と話さない日常です。 就労すればよいのですがそれも課題があり、踏み出せないでいます。きっとこれから同年代の人も、職を離れたら同じ課題にぶつかるのではないかと想像しています。 趣味の会など、楽しみを他の人と共有していたり個人的な趣味などがある人はいいかもしれない。けど…。 時々公園など散歩していても、ポツポツあるく高齢の方も黙々と歩いていたりベンチに座っていたり。誰かと話したくないのかな、きっと話したいだろうな。 そんなことを思いながら、毎回黙々と歩いて帰ってくるわたしです。 では「こんなおしゃべりできる場所つくりました」って誰かがセッティングしてくれたら?楽しくそこへ通うだろうか? なんかそんなことができないかと、数年前にセミナーにいってみたりもしたのですが、イメージを絞りきれなくて中断です。 でも、理由とかやることなんてなんでもいいのかもしれない。楽しいなと思える時間を、ほどほどの距離感でやれるなら、いいような気もします。 なにか一歩踏み出せるのかな。 自分の足を引っ張っているのはいつも、自分です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.02.24 00:10:57
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