カテゴリ:ちょっと考えたこと
成人した家族への対応のしかた、みたいなことを考えることがあります。
家族、といえど一個人。 一個人、といえど家族。 当たり前のようですが、その相手の幸せを願わないはずもなく、 どうにか幸せになってほしい、と願うから 心配もするし、もう少しこうしたらどうだろう、とか こうアドバイスするべきじゃないか、とか ぐるぐるとそういうことを考えるのだとは思うのですが。 *** 「もっとこうしたほうがいい」 それを、いざ他人のことに向けて思う場合は 完全に「思う側の自己都合」が入っていると考えるべきなのかなとも思います。 良い悪い、は何かしらの物差しで測っているのです。 で、その物差しの基準は何をもってきまっているのか。 先の、こうしたらいい、を思う側の物差しで相手を測っているのでしょう。 自分の物差し、というのは自分を測るときもそうですがそれにもまして 他人をそれで測ろうとするときには、何かと注意が必要かと思います。 あくまで、他人を自分の型にはめよう、というのと同じわけですから。 一般的には、それがまるっきりの他人なら、 ああしたらこうしたら、を思う段になって 「それは他人の話だから、立ち入るべきではない」と 気づいたりするものですが、 ことこれが身近な家族だったりすると、 「家族なんだから」 「子ども(親)なんだから」 という理由で、(だから身近に感じてしまうというということは普通にあることだとは思うのですが) 他人に思うよりはもう一歩踏み込んだ感情を持ってしまいがちです。 「だって身内だもの」 そう、身内だから、、、。 では、身内に希望したり期待したりすることが、そのままそうなるものだろうか? 家族に幸せになってほしい→私の思う「○○」のようにしたら幸せになるはず そういう図式で考えたことをつい、家族に求めがちです。 具体的に何、というのもありますが、 いつまでに、とか どういうふうに、とか そして身近であるがゆえに、心配がつのるからか 「さっさと動いてほしい」それも 「私の思うように」がおまけについてくる。(!) *** つい最近も、私はそういう思考になって、 「○○してほしい」が、ひっくりかえって 「なぜ○○しないのだろう」という方向に向いてしまうことに気づいたりしました。 ふと、そこで 「ああ、でもこれはあくまで相手の人生なんだからな」という言葉が降りてきました。 私のなかにある「これが幸せ」というパターンのとおりに誰かが動くことで、 その人が幸せになる保証などどこにもない。 はたして、その「幸せ」とは、一体「誰のための幸せなのか?」 もしかしたら、私の思う通りに物事が進むことでの「幸せ」 だとしたら、それは「私の」幸せなのであって、相手の幸せではないのかもしれない。 (世の中には、その両者が一致するというケースもあるとは思うので、全く相反するということはないとは思うのですが) あとは、ちょっと分かりにくいのですが、幸せをねがう、という上向きの希望というより 「○○しないと△△になってしまう」 という、失敗を回避させたいというような希望を持ってしまうこともあります。 「いま、○○しておかないと」 「もし△△になってしまったらどうしよう」 という、不安のようなものに駆り立てられると言うか。 そちらの方が、身近な家族に対しては心配が増大してしまいそうです。 実は私も最近、このパターンにはまり、 「もし○○なら△△になってしまうのではないか」という不安を抱えることが多いのです。 大きくため息をつきながら、暗い気持ちになりつつ、その気持ちを俯瞰して見ている自分もいて、また一つの考えが浮かんできました。 「もし○○なら△△になってしまう、どうしよう」 →「でも、△△になったとしても、それが本人にとって不幸かどうかはわからない」 「もしそのときに困っても、そこから本人が考えればいい」 「家族もその瞬間、困ることがあるかもしれないけれど、即座に生活に困窮するわけではないのかもしれない。もし困窮したとしても、どうにかする道があるはずだ」 「万全を期したつもりでも、その通り物事が運ぶ保証はないし、その通りに運んだとしてもだから必ず幸せかどうかはわからない」 そんなような考え方です。 ある程度は物事を予想したり先行きを想像したりして準備をすることは大切なことで、 準備もしないのに願いがかなわない、などと言いだしてもらちが明かないものですが、 だからといって家族であっても一線が必要だったりする。 そのためには、 物事を一つ一つ決めて実行するのは当の本人しかいない。 ということを、物差しで測ろうろする側がしっかり、自覚するしかないのだろうと。 たとえ、自分の思う通りにしなかった相手が、予想どおり困ろうと、苦境に立たされることがあろうと、成人した大人が相手なら、それを当人が引き受けるしかない。 誰かに助けてもらうことはあってもいい、その力になれたらとは思うけれど 希望されもしないのに出す手や口は、手助けではないかもしれないという 想像力と、 相手が苦しむこともプロセスだと、心を鬼にすることも必要かもしれないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.11 22:32:23
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