外出自粛に伴い、自宅で過ごすことになっている人も多いと思います。
一日三食、自宅で作って食べて片づけて。
自宅とはとかく、出かけ先(職場や学校)から帰宅して、食事して、寝る場所みたいな認識をしがちでしたが、今では生活のメインの場となっている人も多いと思います。
我が家もご多分にもれず、そんな生活を自宅でしています。
そんな中で、感じたことがありました。
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普段は比較的、家事炊事は主婦でもある自分の仕事でもありがちなのですが、
私以外の家族が食事を作ってくれたり、片づけをしてくれたりすることも増えてきました。
変わらないのは、三食食べなくてはいけないこと、それを誰かが支度をして片づけること。
献立を立てるなりして買い物にいき、それが毎日続くこと。
そうなると、「ああ、やりたくないなあ」という心境の人がいたりもする。
(それは主婦がやっていたころだって何ら変わらないわけではありますが。)
主婦が、ああめんどくさいなあと思って料理をしていたのかもしれない。
嫌だなあと思いながら作ったり片づけたりしていたことがあったと思うのですが、
それを見ていた他の家族は一体何を思っていたのだろう?
というのも、
私以外の家族が炊事片づけをする様子を傍で見ることが増えたわけですが、
そのときのいろいろが、気にならないわけではないということです。
たとえば、
調理の時の音。
がちゃん、と鍋や食器を置く音や、フライ返しでフライパンをがしゃがしゃと掻く音。
ガタガタと鍋をゆする音。
そういう音が気になってしまうのです。
たぶん、
私の考えすぎなのかもしれないのですが。
それが、その音が、何らかのメッセージに聞こえてしまうような。
「もう、めんどくさいな」
「ああ、しんどいな」
みたいなメッセージに聞こえてしまう瞬間があるのです。
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そう聞こえた瞬間に、はたして自分はどうだったろう?などと考えたりして。
あ。ただし。
おそらく、ですけれど、こう聞こえてしまう理由の一つに、
私自身が「料理や片付けが私の仕事」みたいに、潜在的に思っていることが
一因である可能性はあるな、とは思ったのですが。
逆なら家族は何も思わないのかもしれない?
「食事を作るのは主婦の仕事なんだから、不機嫌だろうがなんだろうが、作るのが役割」
「不機嫌そうにやっていても、ボイコットするようなことはないし黙っていれば食事が出てくるだろう」
そんな感じで、ガチャガチャいわせながらも食事を作るなり、片づけるなりする人に
あまり違和感は持たないのでしょうか。
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そのあたりの「特定の役割に対する考え方」は置いておいたとしても
そして
それが調理だとか炊事に関係ないことだとしても
態度は口ほどにものをいう
ということを感じた次第です。
アサーション という言葉がありますがご存知ですか?
率直な自己表現、というようなものなのですが
つまり、回りくどくいわず、YES/NO の自己表現、主張を感情を交えず
さわやかに行うことを言います。
とかく、
断りにくいとか、NOをいいにくい、というところから
「いやいややる」
という選択肢をもちがちなのですが、そうはせずに
「いまはしたくない」「自分はしたくない」
と言ってしまうこと、言えることの大事さみたいなことについて
アサーションを学ぶと考えさせられたりもするのですが。
率直な意思表示は、自分の気持ちを大切にして、相手に伝えるという
人権にもつながることでもあるのですが
いや、でも言いにくいよ?という疑問については
「だまっていても伝わってしまうもの」
というのがざっくりとした回答ではあるのです。
口で言わなくても、
態度でわかる。
腹を立ててることを言葉にしなくても、
不機嫌なのは態度で伝わってしまうもの。
それならば、無言で伝わる、傍からみたら不愉快なような態度よりも、
「こうおもう」
を自分の言葉で(iメッセージで)伝えたほうが、
お互いに嫌な気持ちにはならないのではないか?というような考え方もあって
感情を交えず、気持ちを言葉にしてみようというようなことです。
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いざ自分が、それを「される側」になると思うと
不機嫌な態度をしなくても、言ってくれたらいいのに
と思うのだろうと思うのです。
※ただし、日本ではNOということに罪悪感を伴うような感覚もあって、また
不機嫌をぶつけるような場面はそこいらじゅうにあるようにも思います。
また、アサーションが成立するには「相手の側の聞く態度」もセットかと思うので、
そこは気になるところでもありますが。
家族が家の中で過密になりがちな昨今、
コミュニケーションの方法として、「アサーティブに」してみる、というのは
潤滑に、トラブルを避け快適に毎日を過ごすための方法の一つではないかとも思ったのでした。