我が家には大人のほかに小学生がいるのですが、
小学生だけスマートフォンを持っていません。
正確に言うと、学習のためにタブレットを新調して持っています。が
それでアカウントを取得してSNSをやったりはしていません。
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そうです。SNS。
ちょっと距離を置いたほうがいいかも、と思い始めました。(私が、です)
私が使っているのは、Twitter、FacebookなどのSNSです。
かれこれ10年以上は使っています。使用頻度は、Twitterが多いと思います。
Twitterは、情報源という言い方をする人がいますが、たしかに
日々、時事のニュースがオンタイムで流れてきます。
同じマスコミのニュースでも、速報、という見出しで流れてきたりして、
おっ、これはなにか?となるわけです。
速報の内容は
「新型コロナで○○県で感染者が何人」
「何県で地震 震度何々」
「だれだれがどこどこで逮捕」
「政府が○○を発表」
など…。
確かにみると、おお、となるような内容で、どうでもいいニュースは少ないです。
ですが
はたしてその瞬間に知っていないといけなかったか?と思うとそうでもないかもしれない。
その日のうちにニュースで報じられるだろうし、翌日の朝刊にも出るものがほとんどです。
その他のよろずな?ニュースもなかなか興味深く面白いものも多いのですが、
それがとにかく次々と情報が流れてくる。
自分がフォローしたものが多ければ多いほど、自分が選んだ種の情報がどんどん流れてきます。
つまり
ずっと見ていても飽きないのです。
そして
それを通り越して、そこから目が離せなくなってしまうくらいの状態です。
以上はSNSのタイムラインというものについてのことでした。
自分で作ったタイムラインは、黙ってみていても案外見ていられるものです。
そして
SNSの特徴として、利用者とリアクションを含めた相互なやり取りができる
というのも大きなことです。
使ったことがある人はピンと来ると思いますが、つまり見るだけではなくて自分が投降した時に、ただそれがフォロワーのタイムラインを流れるだけなのか、それを見た人が何らかのリアクションをするのか。
というのも、自分にいちいち通知が来ます。
だれだれさんが、いいね しました。
だれだれさんが、リツイートしました。
だれだれさんから返信がきました。
SNSはときに、その中に利用者を感じることができるのです。
そんなとき、一瞬、自分を見てくれている人がいると感じることができたりもします。
それが、反感反論ではなく肯定的なリアクションだったりすると、なんというのかちょっとした仲間意識が生まれたり、ああこの人は私の味方かな、仲間かな、と思う瞬間があったりする。
実はそれもSNSを利用する醍醐味というのか、楽しみだったりもするのですが、
そこが曲者になったりもするな、という面もあるのです。
リアクションをもらうと、満たされるのは自分の承認欲求です。
自分を見ている人がいる、自分の投稿を通して自分の言い分を肯定したり同意したり共感したり良いほうに評価したり、そういう感じを受けるのです。
ただ自分が述べたことが、誰かに響いた=影響を与えた みたいな感覚に
うれしくなってしまうことも人ならあろうかと思います。
そうしているうちに、その承認を求めるようになってしまうというのが人情というものでしょう。
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長年かかわっていたり、一度人からのリアクションをもらう経験をすると、
それをもらいたいと思う気持ちはもらったことがないころより強くなると思います。
欲求というくらいですから、欲、なんでしょうね。
そしてそもそも
自分の興味あるアカウントというのは自分と興味が似ていたり
生活の中での関心事が近かったり、みたいなこともありがちなのですが
その中でちょっとしたずれだとか
人ですから比較することでの「ねたみ」みたいなものも生まれてくることもまれではないと思います。
これは仕組みの中の話ですから「故意に」なのかどうかなど探っても勘ぐってもそういうことこそ
どうしようもないものですが、人の欲というのは…なんというか。
知らず知らずのうちに、誰かをねたんだりするようになるのでしょう。
私がSNSをはじめた当初と思うと、誰かを批判したり攻撃するような投稿がずいぶん増えたように思います。
そして、昔は「そうなのか」と寛容に見ていたけれど最近それができなくなったのが「自慢する内容の投稿」です。
心が狭いようですが、人もうらやむ誇り高き投稿を、正視するのがしんどいなということが正直でできました。
つまりは
得られるメリットが個人レベルのデメリットを越えてきた、というような感じでしょうか。
ただ論じたいわけではなく、「実害」に近いものが現れ始めたような気がしたのです。
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あちこちのサイトで書いている人がいますが、
SNSに限らず、メディアにつながったりスマートフォンに向き合う時間はあっというまに過ぎていきます。
大人が複数いてもしーんとしている居間では、
それぞれがそれぞれのパッドやスマートフォンに目を落としている。
しかし、小学生はそうじゃない。
毎日家に居ながら、テレビも何も見あきてしまった。そんな一日の終わりのひとときに
大人はどこかよそにつながって(というか見ているだけかもしれないけれど)
子が一人で、ポツンとしている。
なんか、ちがうよな、と改めて思ったのです。
かくして子どものほうを見ずに大人がやっていることについて
それに費やした時間から得るものと、失うものを考えたらどうか。
子を放置しても、しないわけにはいかない、実りの多いものなのかどうか。
天秤にかける。
をした結果。
みんなが、どこかを向いている間に、過ごしている子どもとの時間は戻ってこない。
もちろん
すべてが悪なわけはなく、上手に使っている人がほとんどなんだろうと思います。
ただ私に限って言えば、それが気分転換や有益な情報収集なのかどうかということと
もろもろの体調にもかかわってくることであるということを考慮したとき
いま、どうするのがいいのかなと考えた結論がふっと降りてきたような感じです。
誰かのリアクションを待って、ああ今日も…とのぞいている窓の、この家のなかで
他にすることもあるのかもしれない。
自分の感覚に正直に。
また気が変わったり状況が変わるかもしれませんが。