カテゴリ:ちょっと考えたこと
家族と暮らす中で最近おもうことがいろいろあって
うまく表現できないかもですが… 奇をてらった、めずらしいことやいつもしないこと、「新しいこと」への刺激というのはあって、 そういうことをするときは「前向き」になる傾向というのがある気がするのです。 外に出かける 初対面の人と会う いつもは食べないものを食べに出かける 久しぶりの人と約束をする どれも、暮らしの中のエッセンスというのか、ちょっとしたスパイスになるというのか いきいきした生活をするために欠かせない要素なのかもしれない。 けれど、この数カ月自粛生活というものを経て、何処にも出かけられない、 自由な行動をある程度制約された経験からも、気づいたところがあるのかもしれませんが。 不自由とも感じる自宅での自粛生活であっても、毎日はつづいていくし むしろ、そういう、食べて、寝て、排泄して、洗濯して、掃除して みたいな部分のくりかえしで日々は成り立っていたりするもので いまさらながら、そうだったのかと気付いたようなところがあるのです。 そういう日常の「当たり前」なところって、 地味で、楽しくなくて、面倒で、一度済ませてもまた繰り返す みたいな側面がありますよね。 きれいにしてもきれいにしても、すぐ汚れるとか ああ、あまり触りたくないなとか けっしてわくわくもしないし楽しくもない、というような きれいに着飾って、おいしいものを食べに行く 久しぶりの人と会って話して、刺激をもらう みたいなことも、必要不可欠だなとは思うのです。 私のここ数年の生活はそういう外からの刺激に 非常にうとい、ようなスタイルなのでよけいにそう思うのですが なにも今始まったことでもなかったりするのです。 *** 私は結婚後、専業主婦になり子育てをして20余年が経ちましたが、 その間も、 「専業主婦が天職」と思うわけでもなく、 「子どもがいるから家にいないといけない」と思ったことも多々あって、 自宅での家事育児もろもろが、単調で地味な仕事の繰り返しのような感覚があって それが日々終わらない、誰からも評価されないつらい仕事だという認識をしてきたように思います。 その弊害みたいなものも勝手に痛感してしまっていますが(正しいかどうかは別として) きっと、外に働きに出ればきらびやかな何かがあるのかどうか、それも解りませんが それでも きっと、その中にも地味で誰も評価しないつらい仕事が含まれるのだろうとも思うのです。 誰がやってもいいつらい仕事を、果たして自分がしなくてはいけない理由はないのかもしれないけれど 前述したような、家の中で発生する仕事は つらくでも面倒でも「やらなくていい」部類の仕事ではない。 誰かがしないといけない、のですよね。 その、くりかえし。 それがほんとうに取るに足らない仕事なのか。 と考えたときに、 つらかろうがなんだろうが避けては通れない仕事を、粛々とやっていくことが 実は生きていくということなんだという 至極あたりまえのことに、今更ながらに気づいた次第です。 そういう日々の仕事をする姿を、誰かが見ているのだと思います。 家事をする主婦、お母さんをみて 「取るに足らないことを毎日やって馬鹿みたい」と家族は思うでしょうか。 「あんな仕事をするようにはなりたくない」と自分に言い聞かせるのでしょうか。 それはどうか、わかりませんが。 すっきりした暮らしの中にだって、家事は発生します。 食べない人はいないし、寝ない人もいない。 家で暮らすのだし、衣服も場所もそこに住んで生きる限り誰かが汚すのだから 快適に生きるにはきれいにする行為がかかせないのです。 それが当たり前のことだし 面倒でも毎日でも発生してくりかえすのが生きること。 恥ずかしながら、いまごろこんな投稿をしています。 きっとこういうことは、家族に「だいじなことだからやりなさい」と話しても、きっと やるようにはならない類のことだろうと思います。 多少、家事が滞っても死にはしないだろうし、そういう自由もあるから。 でも、家事炊事育児について、つい 「取るに足らない仕事」とか 「評価されない仕事」とか 「主婦にまかせっきりでいい仕事」 みたいに位置付けられていることが、なんというのか のちのちに、大きくなにかを歪ませるような気もするのです。 当たり前のことを当たり前にすることでの快適さ。 みたいなことを「感じる」 教え諭すのではない、なにかだいじなことがあるような気がしたので記録しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.06.09 16:48:34
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